二回目の目覚ましで起きて、結局今日も朝ごはんは飲むヨーグルト。6分遅れで来たバスに乗って乗り継ぐ満員電車。
今日も今日とて繰り返し、繰り返す。
扉が開くと洪水のように人、というヒトが溢れかえって、いろんな靴がコンクリートを蹴り鳴らす。運が悪いと時々、誰かのカバンにイヤホンのコードが引っかかって、音になり損なった声で「スミマセン」と一言。
それでもやっぱり、結局、同じことの繰り返し。
だからだと思う。
だから、不意に曲がり角に消えた浅葱色を目で、追ってしまったんだと思う。
からだ中の細胞全部、意識をそちらに向けた、私が彼を認識した、彼がそれに気づいて振り返った、その数瞬。――――私は、音をたてて体温が2℃上がる「ふふっ」
「……なんだ」
突如として笑いだしたなまえに俺は眉根を寄せた。ソファに寝転がってただのファッション誌を眺めていただけのコイツが何に笑っているのかわからなかったからだ。
「なんだ、なまえ」
放り出された彼女の脚のすぐそばに腰掛けて、何をするでもなくつけっぱなしのTV画面を見ながら俺は訊ねた。わけのわからんことで勝手に笑われるのは、なんとなく気に食わなかった。
するとなまえは「いやね、」と話を切り出す。
「思い出したんだ、グリムジョーを初めて見つけたときのこと」
そう言って、ふわりと笑った気配を感じた。やわらかな色を湛えながら、未だ手元の雑誌に落とされている真っ黒な瞳が見たくなって、俺はゆっくりと腰を上げる。
「いつの話だよそりゃあ」
言いながら、頭上まで回った俺に気づきながらなまえは、まだ顔を上げない。
「いつだっけねぇ、もうだいぶ前になるかな?」
とぼける口調は吐く気の無い嘘話。「そうさな」相槌を打って、瞳と同じ真っ黒な髪に、俺は手を伸ばす。と、
「ね、グリムジョーは覚えてる?」
パッと上げられた顔にはきらきらと期待の表情が乗せられていて。
伸ばした手を緩慢な動きで引き戻すと、誤魔化すように俺はその手を自分の首に当てて瞬きを数回。
「あーー、ワスレタ」
これまた俺も、吐く気の無いわかりやすい嘘を発して、反応をみる。「えーー、ウソ」わかりやすく乗ってきたなまえに、俺は口角を持ち上げた。
「ちょっと、からかってないで言ってよ。覚えてるんでしょう、ちゃんと」
ファッション誌を閉じて、本格的に、俺とのオシャベリを楽しもうと身を乗り出したなまえがいじらしく愛らしい。素直にそう思った。
「っせーな、覚えてるっての」
思ったから、さっき吐いたちっぽけな嘘もぜんぶ撤回だ。
「忘れねェよ」
忘れられるわけもない、あの時の感覚を、
「アレがいつだったか、どこだったか、」
においを、時間を、
「お前がどんな顔してたか、俺がどんな想いでいたか、」
つぶさに思い出して、不意に触れたくなって、
「俺が、」
手を伸ばした、その時はいつも。
音もなく体温が2℃下がる「俺が、」の先は聞けなくて、今日もまた、ただ体温が2℃下がった。
彼のわらった顔がその日の夜、夢に出てきた。-------
触れられないふたり。
161127
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