この部屋は静かだ。往来をゆくものの音は妙に遠い。まるで別の空間みたいに。
以前一度だけウォリックに話したことがあるけれど、なんでだろうねと頭をくしゃりと撫でられて小馬鹿にされたようだったから、誰にも言ってない。ニコラスに言ってもきいてくれないだろう。
そのふたりは今は仕事で出ている。アレックスもついていっているのか誰もいなくて、やっぱり静か。
ひま、だ。
暇だから階下へ足を向けてみた。
ひたひたと、陽の届かない階段は少しひんやりしていた。
ここはもっと静か。
雑然とした部屋の様子は私を受け入れても拒んでもなくて、2階よりもどこかよそよそしい。そんな部屋をぼんやり見渡していてニコラスがよくトレーニングに使うスペースが視界に入った。
簡易的なソファとマット、ついでに脱ぎ捨てられたジャケットがあって、親切心がひょっこりと顔をのぞかせた。
皺になっても嫌だし。ウォリックが身だしなみにはうるさいし。
すん、と。
手に取ると香る、ニコラスのにおいが。不意に。
「に、こ…ラス…」
不意に胸をこみ上げる激情が、叫び出したくなる衝動が、からだじゅうの細胞を熱くさせて、私はソファに座り込んでそのジャケットにくるまった。
せかいがまっくらやみになった。おともいろもなんもかんもなくなった。
ぶらっくあうと。
それからどれくらいそうしていたかわからないけれど、急に瞼に光が差し込んで隣に少し高い体温を感じた。あったかい。覚えのある、ぶっきらぼうな熱。
薄目を開けるとニコラスが怪訝そうな顔をしつつも私の頭にゆっくりと触れていた。
「おかえりなさい」
声にせず伝えた。ひらけた視界とはべつに、聴覚はまだショートしたままのように機能していない気がして、私自身もそれを承知でもう一度、声に出来ずいった。「おかえりなさい」
「たダぃま」
そうして、私じゃなくてニコラスの発した声が部屋の空気を震わせて、私のしずかな世界が破滅を迎えた。-------
150821
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