湿った空気が地上を漂う夜も更けた頃。それは地下への階段を伝って、奥にある小さなバーの住民まで届いていた。

「黒刀、今日はもう上がっていいぞ」

 洗い終わったグラスを拭く黒刀に、同じくグラスを拭きながらハリベルが告げる。彼はちらりと時計に目を遣った。店を閉めるまでは、まだ少し時間があるようだ。

「でもハリベルさん、まだ閉める時間じゃないっスよ」

 チッ、チッ、と微かな音を鳴らして動く時計を、黒刀は顎でくいっと示す。今日はラストまでの予定だった筈だとも彼は付け足した。

「いや、今日はもう来ないだろう」

 時計に見向きもせず断言するハリベルを不思議に思った彼は、浮かんだ疑問をそのまま口にする。

「どーしてわかるんスか」

「勘だ」

「…何スか、それ」

 きっぱりと言い切ったハリベルに黒刀は思わず苦笑した。からかわれているのか、とも思ったが、凛とした姿勢のままグラスを片付ける彼女からは、彼は何も読み取れなかった。

「いーっすよ。お給料分は働かせていただきマス」

 背にある棚にグラスを仕舞って、黒刀はカウンターを降りる。
 彼は手近にあった布巾を持って、いくつか置かれた個別の丸テーブルを慣れた手付きで拭いていく。

「…いやもう上がれ。お前、最近寝てないだろう」

 ハリベルの諭すような声にぴくり、黒刀は一瞬手を止めた。無言で作業を再開すると、「図星か」と止めの一言。

「どうせろくに大学の課題してなくて追い込まれてるって口だろ」
「…いやあ、当たってるような当たってないような」

 ふにゃっと目尻を下げて誤魔化した黒刀に、ハリベルは最後のグラスを棚に置いて硝子の戸を少しだけ乱暴に閉めた。黒刀はそれに気付かない振りをして作業を続ける。

「お前、最近片っ端からシフト入れているだろう。…ま、お陰で女の常連は増えたがな」
「ははっ、またまた」
「…で?目当ての奴でも出来たわけか」

 腕を組んだ彼女はカウンター越しに黒刀を見た。じっと。
 その視線と質問を受けて、黒刀はゆっくりと振り返り、静かに彼女のもとへ近付いた。



「えらく今日はお喋りッスね。…嫉妬、でもしてんの?」



 すうっと細めた目で黒刀はハリベルを舐め上げた。カウンターを挟んでふたりの間に沈黙が流れる。
 ふと黒刀の耳が、地上を打つ雨音を拾った。ああ降りだしたか、今日は帰れねぇな。頭の端でそんなことをぼんやりと考えた。


「…馬鹿か」


 そしてハリベルの台詞はあまりに明快な一言だった。彼女は黒刀の視線から逃れながらそう言い放った。
 そして彼女は黒刀に背を向けようとする、その動作を、彼は彼女の細い腕を掴んで阻止すると不意に、


「っ……」


 ふくよかなその唇に、己の唇を落とした。
 触れるだけ、ただ一瞬のそれは、それでも黒刀の心を満たすただひとつの行為。
 ハリベルは、その瞬間だけ驚きを見せたものの、離れていく紫苑の隻眼をゆっくりと辿っていた。


「俺ががんばってここ来てた理由…わかったか?」


 ハリベルのシャープな輪郭を、黒刀の右手がなぞった。ついと滑るその手に、彼女の手が重なる。


「仕方の無い奴だ」


 重なった手は直ぐに離れ、ハリベルはするりとカウンターの奥に引っ込んでしまった。

 ひとり残された黒刀は、テーブルに背を預け溜息を吐いた。落胆では無い。安堵の息だ。彼はキスの時に垣間見た、ハリベルの瞳の揺らぎを確実に捉えていた。


「かーわいーなあもう…」


 そう呟いたと同時に、奥からしっかりしたヒールの音が響いてきた。カツカツ。ハリベルがカクテルを手に戻ってきたのだ。
 カットされたオレンジが店内の証明をつややかに反射して、同色のカクテルを華やかに彩っている。

「それを飲んだら帰れ」
「…ワインクーラー?またなんでこれ、を……」

 グラスを手元に引き寄せた黒刀の言葉が、徐々に小さくなっていく。そして徐にその口角を上げ、ハリベルへと目線を合わせた。


「雨、降ってきたみたいで、帰れないんス」


「知るか。濡れて帰れ」


 にかっと皮肉っぽく言う黒刀に、ハリベルは目を閉じて答えた。少し息を吐くとくるりと背を向け腕を組む。
 黒刀はそれを見てワインクーラーをぐいっと煽ると、カウンター端にある出入口からハリベルのもとへ歩み寄った。後ろから覆い被さるように抱き締めると、ハリベルはほんの僅かに、身体を強ばらせる。


「ね、ハリベルさん。俺、ご期待に答えちゃっていいんスか」


「…意味、知ってたんだな」


「勉強家なもんで」


 お互いを探るように言葉を交わして、黒刀の指がそっとハリベルの唇をなぞった。壊れ物を扱うかのように、或いは誘うようにそれが伝うと、ハリベルはうっとりとした仕草で後ろを振り返る。
 黒刀は満足そうに目を細めた。



「勉強家な俺にご褒美、くれよ」



 甘酸っぱいオレンジの香りを漂わせて重なった唇は、どちらからともなく。





wine cooler


私を射止めて




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 やっちまった黒刀と破面シリーズ第2段…絶対するする詐偽で終わると思ってたのに←
 いつかのアニ鰤EDでバーテンダーなハリベルさまに心撃たれて黒刀でやっちまった…見習いバーテンダー黒刀さんと先輩ハリベルさま。ほんとはハリベルさまに翻弄される黒刀を書きたかった(笑)

 あっバー、カクテルの描写はネット頼りですさーせんw
 カクテルの意味的なん調べてんーってなって…ワインクーラーもなんかオレンジに限らずワインと果実系やらなんやら合わせたら全部その呼び名らしいっすね←夢々羽のすげー適当な認識
 取り敢えず少し調べただけですが凄く好奇心を擽られる世界でした!ヽ(´ー`)ノ
 でもなんか間違った表現などありましたらご指摘いただけると嬉しいですm(_ _)m

 そんなこんなで久々の更新でした(^○^)ここまで読んでくださりありがとうございました!


120610


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