「抜け出そうか、この“地獄”から」
そう言って目の前の男は薄く笑った。まるで、ぐにゃりと闇が歪んだように魅せるその顔は、干からびた右側が歪な造形を成している。血の通っていない肌の色をしたその様は、男の首を通り手足の先まで右半身を覆っていた。
それを見ていた俺の、黒布を纏った肌にぞわぞわと気持ちの悪い悪寒が走る。見てはいけないものを見てしまった時のように動揺したその心を、俺は静かに腕を組んで誤魔化した。
「…無理に決まってんだろ、そんなこと」
努めて平静に、俺は返した。此処に堕ちてから幾度となくそれを試みたことを、お前も知っているだろう? その度に俺達は番人に阻まれ、地獄の底へと堕とされた。恰もその希望は、咎人のさだめと同じく奴等に潰されてきたのだ。
「相変わらず俺達が此処にいることが何よりもの証…今回だって、無理だった」
「あぁ、そうだな。…だが、お前も見ていた筈だ。流れ込んできた破面の記憶にあった──あの餓鬼の力を」
「……」
何かとても面白いものを見付けた子供みたく楽しそうな男の様子に、俺は何も言えず口を閉ざした。
こいつの言う通り、脱出を謀りクシャナーダに捕らえられた俺達が地獄の底で見たものは、第4の称号を持つ十刃を圧倒する強大な力。虚の仮面と能力を纏った、死神代行の黒崎一護だった。
「……それがどうした」
「はっ、わかりきったことを聞くんじゃねーよ。
あいつの力で、この鎖を切らせるんだ…俺達を地獄へ繋ぐ、この忌まわしい鎖を!」
「っ!!」
ぐっ、と、男が空を掴み寄せた。
一瞬だけそこに、赤錆色をした鎖が映って、俺の身体は男のもとへと引き寄せられる。そのまま胸ぐらを掴まれて、息苦しさに咳をしながらも俺は言い返した。
「そんなこと出来るわけねぇ!
第一お前、そうしたら現世が、世界がどうなっ──」
「世界……ねぇ、」
男がそう小さく呟いた瞬間、俺の身体はすべての機関が活動を停止させたように、動くことが出来なくなった。身の毛のよだつ“何か”を感じて、それに爪の先まで縛られたようだ。
「お前は……いや、俺達は、その“世界”とやらに何をされた?」
“何か”──それは、何処までも純粋にある悪意と狂気。俺達が光を失った“世界”に対する、消えることの無い怒りと虚無だった。
「大切なものを理不尽に奪われた。それも暴虐に、凄惨に! ……それからぽっかりと空いた穴を埋めるもんは、何も無ぇ。
だから俺達は殺したんだろう? のうのうと楽しく過ごす奴等を片っ端から。俺達と同じ苦しみを与えてやったんだろう…?」
限界にまで開かれた男の瞳孔が熱を帯びる。俺の胸ぐらを掴んだ手にはぎりぎりと力が増していく。
沸々とした感情を止めどなくぶちまける男に、俺の妙に冴えた理性が警鐘を鳴らしていた。違う、それは甘えだ。只現実から目を背け、逃げ続けている自分に対しての言い訳に過ぎないんだと。
「っ……」
そして、男の瞳に映った自分を見た俺は悟った。
嗚呼、そうだ。結局俺とお前は──同じなんだ。
その考えに至った瞬間、男の表情がしゅんと色を失った。かと思えば、今までとは一変、ずっと掴んでいた俺の胸元へしずしずと擦り寄り、とてもいとおしげな眼差しで見上げてきた。
「…そんな顔すんなよ。俺とお前は同じなんだぜ?」
甘くどろりとした声で、俺の思考と同じ言の葉を紡ぐ。
「俺はお前が大好きだ。妹を想うところ、少し寂しげに笑うところ、理性と欲望の狭間で苦悶するその表情も、みーんな好きだ」
ゆっくりと男が倒れ込んで、俺は乾いた地に押し倒された。
「お前も俺を拒めない。でもそれは悪いことじゃねぇ。
どうせ誰も皆、自分が一番なんだ」
自分を護る為ならば何だってする。それが普通だと、男は言った。たとえそれが、どれだけ非道の限りを尽くしていても、人間の性質から外れることなど無い。逆に言えば人間は、それを為せる可能性を秘めている。
「もう俺達は十分苦しんだ。そろそろ、解放されても良い筈だ」
男が俺の首に手を回す。同じ咎人の鼓動を感じる。
「…そうかもな」
無意識とも言えるうちに、俺は小さく呟いた。それから腰に手を絡めて、俺もその身体を強く抱き締める。腕の中で男が、「愛してる」と笑った気がした。
「あぁ…多分、俺も」
もうその時の俺は、男の朽ちた肌に触れても、何も感じなくなっていた。
フェードアウト・アイデンティティー
次に目を醒ました俺の景色は、
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地獄篇お祭り企画「Welcome to HELL」様へ提出。
マイナー俺得すみませんあばば^p^DVD発売日も決まったようで、私も出来る限りわっしょいいっぱい創作していけたらと思います。
海月緋斗様、素敵な企画をありがとうございました!
110522
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