『 運命を、殺す。 』
元々生まれる確率が低いアルファに、兄弟揃ってなる事なんて、まれだ。
世間はそういう風にその性を理解している。
そして、その代表例の様な俺たち兄弟を見て、その仮説に安心するのだ。自分がアルファじゃなかったのは、しょうがない事なんだと。血が繋がっていてもアルファになれないのだから。
アルファの兄とベータの俺。理性が吹っ飛ぶほどのフェロモンなんて存在しない俺の世界。安上がりだ。
オメガが発情しようが関係ない。
そうだ、関係ないのに。
「何してんだよ、こんなとこで」
玄関を開けたらすごい臭いがした。男同士だから、ある程度は性欲処理も無視するが、今日は開けた瞬間だった。足元で靴を履いたまま腰を抜かしてスーツの前を寛げ、眉を歪めて必死に自慰行為をしている兄貴が嫌でも目に入る。
驚きと嫌悪感で声が歪む。蔑む、まさにその音が自分の口から溢れ出た。
「あっ…、コヤシ、ごめ…ごめん…」
悔しそうに奥歯を噛み締めながら見上げられて狼狽える。泣いてる。なんだこのちぐはぐな状況は。
「とま、なくて…」
どうやらうちにたどり着いたのすら奇跡に近そうだ。口を開こうとした時、背後で扉が乱暴に叩かれた。
「あのっ、あのっ開けてください!」
くぐもった声が聞こえる。Ωが家の前にいるなあとは思ったが、どうやらそのフェロモンに兄貴はやられたらしい。
でも、どうして。薬だってちゃんと飲んでるのに。
いつもの場所にある薬を見据えてから、兄貴を見下げる。それだけで、手の中のどろどろに蕩けたそれが爆ぜたのがわかった。
兄貴は、俺のことが好きらしい。性的な意味で。だけどそんなこと思わせない様に普段は振舞っている。互いに受け入れてはいけない感情だと理解している。俺はといえば、受け入れるどころか、嫌悪感でいっぱいなわけだけど。
「んっ…ふ、う、コヤシ…」
がんがん、さっきより強く扉が叩かれた。
「あの、貴方も分かってますよね?僕たち、魂の番だって…分かってますよね!?」
ピクリ、肩が揺れたのが分かった。
何で動揺してるんだ俺。
はぁはぁと荒い呼吸が前から後ろから聞こえる。
もうヤっちゃえよ、頭のどこかで俺が怒り叫んだ。巻き込むなよ。イライラさせるな、勝手にしろよ。αだとかΩだとか、フェロモンだとか、番だとか、関係ねーんだ、俺には。
「コヤシ、ごめん、表の子を安全なところまで連れて行ってあげて…」
ツラそう。こんな表情の兄貴は初めて見た。色気ってこういう事なんだと、直視出来なくなる。
「わ、わかった…」
クソめんどくさい。だけどこの状態のままほっとくのも……そうだ、と気を利かせて薬を兄のもとに運ぼうと、一歩踏み出した。のに。
「早く行け…!」
苛立ちと焦りが混じった声に身体が固まった。当の本人は俺も見ずにうつむいて息を吐いている。それを呆然と見た次の瞬間、沸騰しそうな怒りが湧いてきた。
「な、なんだよ!こっちは薬取ってやろうと…!」
「…ぁ、ごめん、コヤシ、違うごめん、がまん、がまん、できな、こやし…」
怒鳴りつけると、ようやく顔を上げた兄貴に、俺はぞっとした。普段あんなに飄々とした兄貴からは想像もできないほどの姿。朦朧としているのだろう焦点の合ってない、瞳孔の開いた瞳は大粒の涙を抱えながら必死にこちらを見上げていた。
「あのおめがをどこかにやって、おねが、……ーーおれは、…ちが…ァ…ちがう!おれは、コヤシが好き…だめ、がま…ん…ん゛ん゛…コヤシ、こやし、ぃ、どっかやって、とおくにおれからとおくに、」
肩で息をする兄貴がまるで狂ってしまったかのように言った。怖かった。まるで知らない…獣みたいだった。いつも起こしてくれて、ご飯を作ってくれて、たわいもない話をするような兄であり、親代りだった姿とはまるで違った。
恐怖に固まって、喉の奥から「あ…」と不安に満ちた声が溢れた。ここから逃げないと、今すぐに。なのに、体が動かない。竦んだ足が、ぴくりと震えるだけで、どうしようもない。
荒い息が、ハッと一度吐かれて、そしてしばらく止まる。
ぐらり、兄貴が驚くほどスムーズにこちらを向く。
「コヤシ、ほしい」
ドロリと蕩けた瞳で見上げられ、手が伸ばされて俺はやっと体を動かすことができた。まるで蛇に睨まれた蛙だった、絶対的な捕食者の唸り声を、恐怖に震えたまま聴いているしかなかった。
「ひっ、わかったわかったから!」
何もわかっちゃいなかった。それでもそういうしかなかった。とにかく兄から離れないと危ない、そう思った。
バタン!!
背後で扉が物凄い勢いでしまった。途中、無理に入ってこようとする華奢な男を止めて、知らずのうちに上がっていた息をゆっくり吸い込んだ。
「あの、…あ。」
こっちも発情してる…。Ωのフェロモンは、βであろうが多少は効く。理性が勝るけど。
まったく仲良しこよしかっての…。
この人が、兄貴の魂の番…。
顔を見て、ハッとした。息を呑んだ。
こんな人に発情されて、必死に我慢を口に出す兄は滑稽に思えた。受け入れたらいーじゃん。そう言ったら、泣いてしまうんだろう。笑える。
「なあ…その、1番辛い発情なんだよな?これ効くかわかんねーけど、授業で貰った薬…飲むか?」
カバンの奥底に緊急の時のためにβであろうと配布された応急処置の薬がある。カバンを漁ってようやく取り出して、鍵のかかった扉に泣いてすがりつく男に渡す。
とろとろに蕩けまくったその顔を見て、思わずごくりと唾を飲み込んだ。男なんてぜってぇ無理なんてレッカと笑い話してたのに、なんでぐらついてんだ、俺。これが、フェロモンか…。
「おーい、コヤシくん。」
「あ、…テンゾウさん。」
汗だくで駆け寄ってきたその姿にいくらかホッとした後、はたと気がつく。テンゾウさんだって、αだ。いくら頭が回らなくなってたって、わざわざこの人を呼ぶことないってのに、何やってんだクソ兄貴。
「駄目だ、テンゾウさん!この人Ωで、発情…」
「わかってる、先輩から電話あったから薬飲んできたよ。病院わかんないだろ?僕が連れて行くから、コヤシくんはお兄さんみてあげて。」
「みるって言われても…追い出されたし」
「え、あぁ…それも、そうか…。じゃあ、手伝ってくれるかい」
流石にここで間違いが起こっちゃヤバイからね、と笑うその人の良さそうな顔と声に絆される。
きっと俺が感じている以上の何かをテンゾウさんは感じているはずなのに、俺が不安そうにしたから、励ましてくれて、気丈に振舞ってくれる。
「うん…」
とは言ったものの、こっちもこっちで大変な事になっていて。
「やめて離さないで、僕の番なんです、僕たち番にならないと、やめて下さいやめて、てをはなして!」
「うーん、魂の番なんて、そうそう出会わないからなあ…こんなになっちゃうんだね、先輩もヤバかったし」
テンゾウさんがもがきながら俺たちの手から逃れるその人を見て呟いた。
「救急車かな。ちょっと呼んでくるから、みてあげてて」
少しは部屋から離せたけど、きっと兄貴は今も辛いんだろう。早く何処かに行ってほしい、もう関わりたくない、なんて気持ちがあって、強制連行して貰えるなら1番ありがたかった。
テンゾウさんに頷くと、彼は携帯を取り出して連絡してくれた。
* * *
一応βの俺が付き添って病院まで救急車に乗る羽目になった。陽はもうとっぷりとくれている。ようやく部屋の前に帰ってきて、足を止めた。
Ωがいなくなって、大分ましになっているはずだ。それでも、勢い任せに扉を開けられるほど無神経でもなかった。
あの人はどうなったんだろう。
魂の番なんて、一生のうちに見つかったら奇跡と言われている存在だ。番同士は、一目見た瞬間に、理解する。魂の伴侶、片割れだと。
授業で習った知識はあまり役に立たない。
全然ドラマチックじゃなかった目の前の現実にただただ圧倒された。ああいうのは突然日常の中、その延長だと言わんばかりにおとずれるものなのか。
ーーーあの人は。
相手が兄貴じゃなければ、あんな思いする事なかった。普通、理性じゃ抑えられないほどの衝動らしいから、病院になんていかない。道端で、ホテルで、家で、今頃愛し合っているはずなのだ。
あの人から兄貴を引き止めたのは俺。今までだって、そうだったけど、魂の番すら拒絶した兄貴に、なんて言葉をかければいいのか分からない。
そして、そこまでして俺にこだわる兄貴に恐怖さえ感じる。
「コヤシ、いるの?」
扉の向こうから声が聞こえた。ハッと息を呑んだ。
「あ、ああ…。入っても、いいのかよ…」
取り繕うように、不貞腐れた。
その瞬間、扉の向こうから腕が伸びて、身体が浮いた。床に背中が叩きつけられる衝撃を予想して縮こまると、悪戯でも成功したような顔で兄貴が笑う。頭の後ろに大きな手がある、どうやら支えられたらしい。
「な…」
「まだまだだなぁ、弟くん」
「あのな…」
にっこりと微笑まれて頭をかきむしる。俺はお前を多少なりとも心配してやったっつーのに。
当の本人は飄々と笑っている。悪戯成功してすごいでしょと言わんばかりに笑っている。
「あ゛ー、馬鹿みてえ。離せクソ兄貴」
無理矢理その腕の中からもがき出た。
どうやら兄貴モードに戻ってくれたようだった。
それでも、においが、あの瞳が…さっきの事は夢じゃなかったんだって、実感させる。
「引っ越ししようか、コヤシ」
「はあ?」
そして唐突に投げかけられた言葉に間抜けた声を出した。兄貴の表情は読めない。何もなかったみたいに冷蔵庫の中を確認している。
それでも、その意図はわかる。兄貴は、あの人から逃げたいんだ。もう会いたくない、そういうことだろう。でも、それって…魂の伴侶を否定するってことだ。俺なんかの、ために。
こわばる体で大きく息をすって、口を開く。兄貴のことは、見れなかった。
「…なあ、すげえ綺麗な人だったぞ。綺麗…なのか可愛いのか、わかんねーけど…魂の番、なんだろ?」
ガタン、皿が乱暴に置かれた音がして、勇気を出して言ってみた台詞に対する反応を想像して身体が固まった。
「……魂の番なんて、居ないよ」
「…でもあんなにお互い辛いなら」
「居ないんだよ!」
びくりと体全体が小さく飛び上がった。
兄貴が声を荒げるのは珍しい。さっき怒鳴られたのだって、珍しいからこそ恐ろしかったわけで。
兄貴は皿を睨みつけるようにみている。
そして、次の瞬間ハッとしたように俺に向き直ると笑顔になる。
「引っ越しするから、荷造りしてね」
「でも」
「学校が変わらないところにするから。大丈夫、大丈夫」
「…あっそ…。」
有無を言わせない言葉に渋々と声を出した。
兄貴は、ま。もっといい所探してたんだし、ちょうどいーよ。なんて笑っている。
いつも通りに。
いつも通りに、世界は進んでいく。
まるで無かったことのように、兄貴は意図して振る舞った。
だけど、
あの蕩けた瞳で見上げられた時の恐怖が消える事はなかった。