異世結び



 ほーうほーう、るぉおおおん、ひゅううううう。
 薄暗い森の中で、不気味な獣の声が木霊する。



「おきつねさまが?」

「そうだ! おまえに、大事な使命をあたえると、母上が!」

 誰の姿も見えない一室で、つきのとは自分よりも小さな子供と膝を突き合わせていた。子供といっても、目の前にいる童の頭にはぴんと尖った狐の耳が生えており、普通の人の子ではないとありありと語っている。天狐月乃女が産んだ双子の片割れで、名をユキシロといった。名前の通り、真っ白な毛が美しい子狐だ。澄んだ金茶の瞳が美しい。
 もう片方のツキシロとは違い、ユキシロがつきのとに話しかけてくることは稀だった。一方的に避けられていた節があったので、今朝「内証ではなしがしたい」と言われたときには驚いたものだ。
 ユキシロが言うには、月乃女がつきのとに「おつかい」を頼んだらしい。月乃女が歪ませた空間からとある森に渡り、そこから異世へ行って、なにか大切なものを取ってこなければならないのだとか。ユキシロは必死だった。真っ白な尻尾をびったんびったんと床に打ちつけ、額に汗を浮かべて熱弁を奮った。
 どうしてもおまえでなければだめなのだ。童の姿をした子狐が言う。

「でも、そのおつかいはユキくんが行くって、おきつねさまと晴明さまがお話してましたよ?」

「そっ、それは! 急にかわったのだ!」

「そうなんですか? じゃあ、おきつねさまに聞いて――」

「ならぬ! あっ、いや、う、……まことを申すならば、本当はおまえにあたえられた遣いではないのだ。だ、だがっ、これ以上、母上に心労をかけてはならぬのだ! 人の子、おまえは母上とせーめーを助けたくはないのか!?」

 一体どういうことだ。訝るつきのとの手を、ユキシロは震える手で握り締めた。

「異世にあるたいせつなものは、くすりだ。母上と、せーめーのやまいを治すくすりなのだ。ふたりはいま、きつねの血を宿す者にしかかからぬやまいにむしばまれておる。ツキシロもそれにかかった! 無事なのはユキだけだ。だから、母上はユキを逃がそうとしておられるのだ!」

「ご病気!? おきつねさまとせーめーさまが!?」

「そうだ! だが、ユキは、みなと共にありたいのだ……。たとえ、やまいにふし、この命失ったとしても、ユキだけ逃げたくはないのだ……」

 助けたい。けれど、一人逃げるような真似はできない。
 ユキシロは言った。薬をもらってくるようにと月乃女は言ったが、天狐とはいえ幼い狐が異世へ渡って、さらには戻ってくるだけの神気も妖気も持ち合わせてはいない。今のユキシロには、異世に渡ってそれきりの力しか備わっていないのだ。
 それでは、誰も助けられない。
 けれど人の子であるつきのとならば、それができるのだという。森を抜けるのに必要な、契約の石がある。それは月乃女の神気が宿ったもので、人の子が持つと十二分な力を発揮するらしい。
 手渡された美しい石をしかと握り、つきのとは冷え切った指先に力を込めた。

「でも……でも、それだとユキくんまでご病気に……」

「ユキはいい! おまえが異世へ渡り、かならずやくすりを届けてくれるのだろう? ユキは母上とツキシロを助けたい。おまえとて、せーめーが死ぬのはいやだろう」

「嫌です! せーめーさまもおきつねさまも、わたしの大切なひとなんです! ツキくんもユキくんも、もちろん!」

「みなは、おまえに心配をかけぬようにと、やまいのことは黙っておった。だが、ユキはそれはよくないと思った。おまえとて、知るけんりがある。……ユキは、おまえにたすけてほしいのだ」

 春には桜を。優しい風の下で、そっと居眠りをした。
 夏には竹を。ひんやりとした緑の屋根の下で、水浴びをした。
 秋には紅葉を。赤く燃える山の中で、舞うように跳びはねた。
 冬には雪を。汚れのない白の中、月を仰いで言葉を交わした。

 どれも大切な思い出だ。これから先もずっと続けていきたいのだ。
 世界を失うことは、もう嫌だった。

「……やり、ます。行きます! わたしが、みんなを助けます!!」

 それがどんな道のりだとしても、必ず薬を手に入れて帰ってくる。晴明と月乃女のいるこの場所が、つきのとの帰る場所だった。二人を失うことは、つきのとにとって世界を失うことと同じなのだ。
 異世とはなんだろう。次元を渡るとは、一体どういうことなのだろう。冥府の先にあるのだろうか。分からない。不安と恐怖で歯の根が鳴る。けれど、ユキシロが泣きそうな顔でほっとしたように笑うから、つきのとは視界が滲むことに気がつかないふりをしなければならなかった。
 抱きついてきたユキシロの小さな身体を受け止める。ふわふわの尻尾が、左右にゆっくりと揺れていた。

「ありがとう。おまえがユキの代わりに異世に渡るのだ。――やくそくだぞ、月乃兎(つきのと)」

 初めて呼ばれた名前に、つきのとの心臓がどくりと跳ねた。


+ + +



 嫌味なほどに大きな満月が、夜を照らしている。
 今頃あの人の子は、薄暗い森から異世へ渡っていることだろう。
 罪悪感などない。もとより目障りだった。ただの人の子のくせに、あれは「月」を宿していたから。

「……見つけた、ユキシロ」

 自分とよく似た声に呼ばれて顔を上げると、そこにはまったく同じ顔をした兄弟が、瞳に僅かな怒りを滲ませて立っていた。どうして怒っているのだろう。怒りたいのは、こっちの方なのに。
 ツキシロに無理やり立たされ、晴明が暮らす屋敷へと引きずるように連れてこられた。その一室には殺気が満たされており、人の器に押し込められた天狐の血が沸騰していることを直に伝えてくる。
 普段、月乃女やつきのとに向けている穏やかなそれとは正反対の凍てついた表情で、晴明はユキシロを射抜いた。一瞬で身体が竦む。気がついたときには、足が床から離れていた。息苦しさから、胸倉を掴み上げられたのだと知る。

「どういうつもりだ! つきのとをどこへやった!?」

「…………」

「答えろクソ狐!! このまま調伏されたいか!?」

「せいめい、女童(めのわらわ)はおそらく輪廻の森から異世に渡った。いま、母上が森に出向いている。渡る前ならば、戻ってこられる」

「渡ってたらどうしてくれるんだ!? あの子は――っ」

「――やかましい、騒ぐな」

 凛とした一喝に、ユキシロの身体が跳ねた。乱暴に落とされたが、月乃女はそれを一瞥しただけでなにも言わない。
 殺気立つ晴明に詰め寄られても、彼女は瞬き一つしなかった。

「つきのとはどうした!? 森ってなんだ、今から俺が行って話をつけに――」

「ならぬ。野兎が持っていたのは歪石(ゆがみいし)だ。この世の気によって、呪詛に苛まれ続けるぞ。あれの効果が消えるまでは、異世に渡らせるより他にない。……加えて、誰ぞと契約まで交わしたらしい。真名の契りだ、そう容易く破るわけにはいかぬ。――それがたとえ、劣弱な子狐とのものだとしても」

 ひ、と息を呑んだ。
 怒られることを考えないわけではなかった。月乃女が気に入っている人の子を騙し、自らの代わりに勝手に異世に渡らせたりすれば、どんな制裁が下されるか想像しないわけではなかった。
 けれど、怒られても嫌われても、――捨てられるよりは、ましだったのだ。
 「月落とし」の自分は、強大な力を持つ母にとっては不要の存在だ。同じ顔をした兄弟は月を継いだというのに、どうして自分は弱いのか。月の名をもらえなかったのに、どうしてただの人の子であるあの女童が、月の名を持っているのか。
 親子の縁を切られても、同じ天狐として認められなくても、同じ世にいる限りは会えるかもしれない。けれど、異世に捨てられてしまえば、もう二度と会うことはできない。
 それだけは、嫌だったのだ。

「晴明、野兎からの伝言だ。文(ふみ)は毎日書くとほざいておった」

「……は?」

「聞こえなんだか? 文は毎日――」

「そうじゃない! そうじゃなくて! なんでその発言が出るんだよ、そんな状況のつきのとから!」

 目を丸くさせたのは晴明だけではなく、ツキシロとユキシロも同じだった。同じ顔で同じように顔を見合わせ、同時に首を傾げる。

「野兎の考えなど我は知らぬ。我は真実を告げたまでよ。知人の屋敷にしばし世話になる、と」

「知人の屋敷? 世話になるって、どういう……」

「これしきの言葉を解せぬとは、耄碌したか晴明。異世にある屋敷に、野兎が住まう。あそこには時渡りがおるゆえ、無能な子狐にもなんらかの知恵が授かるかと思うて話を進めていたが……、まあ、野兎でも問題なかろうて」

 ツキシロがそっと耳打ちしてきた。「ユキシロ、おまえ、母上はお前を捨てようなどと思っておらなんだのではないか?」むしろ、今の言い方ではユキシロを思ってのことのようではないか。
 ぎゃんぎゃんと吠える晴明に対し、月乃女は冷ややかに問答を繰り広げている。金の双眸はちらともこちらを見ない。
 二人の言い合いは、随分と長い時間続いた。つきのとは真実を知った上で異世に渡ることを了解したらしいが、晴明の怒りは治まらない。
 ユキシロに食ってかかろうとした晴明を足蹴にして、月乃女は妖艶に笑んだ。

「忘れたか、晴明。我ら狐は化かすもの。人の子の世では、古よりそう伝えられておるのだろうて。狐に化かされた程度、笑って許せ」

 なあ、ハル。
 真名の断片に縛られ、晴明は息を詰めた。射殺す勢いでユキシロを睨んでから乱暴に部屋を出ていく彼の後姿は、怒りの他に、様々な感情がない交ぜになっているようにも見えた。
 笑みを消した月乃女が、ゆるりと双子の方へ振り返る。

「……さて。阿呆(あほう)の仕置きはどうしてくれようか」

 ツキシロが心配そうにユキシロの袖を握る。月乃女はそのまま踵を返した。「帰るぞ、ツキシロ」跳躍する銀の影が、満月に踊る。僅かに躊躇い、それでも母に続いた小さな白い影が、月に映った。
 待って。――言えるはずもなくて、押し黙る。

「はよう来い、ユキシロ」


 ただそれだけで、月まで飛べる気がした。


+ + +



 ほーうほーう、るぉおおおん、ひゅううううう。
 薄暗い森の中で、不気味な獣の声が木霊する。
 すっぽりと全身を外套で覆い隠した番人に誘われて、つきのとは森の中にある洞窟を歩き続けていた。
 誰も病気ではなかった。晴明も月乃女も、ツキシロだって無事だった。嬉しくなって、月乃女に下手くそとなじられたわらべ歌を口ずさむ。

「せーめーさま、お友達たーっくさんつくって帰ってきますからね! ちゃーんと、待ってて下さいね」

 帰る場所があるのなら、どこへだって行けるんですから。
 つきのとは少しだけいびつに笑って、目の前に現れた扉に手をかけた。



大丈夫、怖くなんてないよ。





(はじめまして、つきのとです!)


戻ル




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -