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午前七時四十二分、県立風森高校前。
緩やかに坂を上ってやってくるバスの一番前の座席から、鳴海梨緒(なるみりお)はいつもと変わらぬ光景を静かに眺めていた。アナウンスが高校前に停車することを告げ、乗り合わせていた同じ制服の男女が降りる準備をし始める。
ちょうどその頃、停車するバスの前を緩やかに走る黒い車がある。バスの向かいからやってきたその車は、梨緒の目の前で高校の正門をくぐっていった。
繰り返し訪れる毎日を退屈に思う暇もない。明日も同じ光景が見られることを確信しながら、梨緒は真夏の青い世界へとふわりとスカートを靡かせた。
+Love more.+
「うう……」
「梨緒、どうだった?」
冷房は心地いい温度のはずなのに、手にしたそれを見た瞬間に一気に寒気がした。
手元に返ってきてほしくなかった答案用紙で顔を覆っていると、どこか気遣うような優しい声が降ってきた。そっと顔を覗かせれば、一年生の頃から同じクラスの葉山雪乃(はやまゆきの)が同じように答案用紙を片手に梨緒を覗き込んでいる。
周りはどこも似たような様子で、夏休み前の最後の試練――期末考査の結果に、悲喜こもごもの様子だった。入学当初から成績優秀だった雪乃は二年生になっても上位を保ち続けているから、今回の結果も落ち込むような点ではなかったに違いない。
ああ羨ましい。何度見ても変わらない数字を頭の上に乱舞させながら、梨緒は絶望に絡め取られた声を出した。
「ゆきちゃん……わたし、夏休みなくなっちゃうかもしれない……」
「え、赤点だったの? ……現国も?」
「だってだってだって! 作者の気持ちなんてわかんないよう!」
「はいはい。それで、今で追試決まってるのいくつだっけ?」
「……現国、数学、現社に日本史、あと生物も引っかかってるから、全部で五個……」
数学に至ってはほぼ白紙で出したから予想ができていたが、まさか現国まで引っかかるとは思ってもいなかった。答案用紙に並ぶ猫の爪痕のようなバツ印に、心まで引っ掻かれていく。
優秀な頭脳の持ち主には追試など未知の世界なのだろう。きょとんとしたあと、雪乃は言葉を探す合間に髪をいじっていた。肩の上でくるりとカールしたボブヘアがよく似合っている。入学前はもう少し長かったと言っていたけれど、今ではこの短さで落ち着いたらしい。
雪乃はしばらく思案顔になってから、教室の前に貼ってあるカレンダーに目をやって気の毒そうに眉を下げた。
わざわざ言われずとも、彼女が言いたいことは分かる。季節は夏だ。外では蝉がうるさく合唱し、照りつける日差しが目に痛い。体育の授業でもプールだなんだと夏を意識させるこの時期の目下の楽しみと言えば、夏休みのはずだった。
もうあと一週間もしないうちに楽園が始まるというのに、追試ラッシュではその貴重な時間も潰れてしまう。夏休み初日に映画を見に行くつもりでいた梨緒には、その予定の代わりに補習というありがたくない予定が組み込まれてしまったのだった。
楽しみにしていたファンタジー大作だったのに。俯いた梨緒を見かねたのか、雪乃が柔らかい声で言った。
「補習って三日だっけ? 三日目に追試でしょ、確か。終わったらアイス食べに行こうよ」
「うん、うんっ! 行く〜! ゆきちゃんありがとう〜!」
人には見られたくない三十六点の答案用紙が床へ滑っていくのも構わずに、梨緒は雪乃の胸に飛びついた。柔らかい弾力に顔を埋めれば、呆れたような溜息と一緒に優しく頭が撫でられる。
同じ十七歳でも、どこか大人びた雪乃は梨緒にとって憧れの存在だった。これでもかと甘えているうちにチャイムが鳴り、休み時間の終わりを告げる。返却されるテストは次で最後の教科となる。クラスメイトの大半が不安そうな顔をする中で、それまでとは打って変わって梨緒は楽しそうに笑ってみせた。
お世辞にも成績がいいとは言えない梨緒にとって、唯一胸を張って得意だと言える教科が、次の英語だったのである。
「うっわ、もうマジ最悪。こんなの見せたら絶対親うるさいって……」
「あたしはとりあえず、全部平均いってたからセーフ! でも最後の英語がギリだったんだよね……。梨緒は?」
放課後の教室で、掃除が割り当てられている班以外のメンバーが、自然と集まってテスト談義に花を咲かせていた。大きな道路の近くに建てられた校舎なだけあって、どの教室にも冷房が取り付けられている。夏は教室の中にいる方が涼しくて快適なため、いつまでもずるずると居残りがちだった。
お昼の時間はもちろん、休日に一緒に遊びに行く間柄の沙耶と加奈が梨緒の机の周りに集まってくるのもいつもの光景だ。