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穂香には話せないような、なにか大事な話があったのだ。きっとそうに違いない。
先日現れた、あの奇妙な虫のことを思い出す。夜にアカギを呼び出す原因となった、真っ白い蜘蛛。観葉植物を育てるのが趣味な以上、部屋に虫が出ることには慣れている。蜘蛛だってしょっちゅう見ているけれど、あんな蜘蛛は今まで見たことがなかった。
まるで花かと見紛うような美しい白い蜘蛛。薔薇の花に蜘蛛の脚が生えたような姿をしていて、美しさと異様さにぞっとした。蜘蛛の中に花に擬態する種類がいるのは知っているが、これほどまでに花に近い種類は見たことがない。
慌てて奏を呼び、ビニール袋で捕獲してアカギを呼んだ。
結局あの蜘蛛がなんだったのか、穂香には分からない。アカギはなにも言わないし、自分から聞く勇気もなかった。もし、あれが白の植物と関係があると言われたら。――そんなものがこの部屋に出たと思うと耐えられない。
「……なあ」
アカギは呆れたように溜息を吐いたあと、穂香の頭を指さして言った。
「お前、いつまで頭にゴミつけてんだ? ――取るぞ」
伸ばされた無骨な指先が髪に触れ、あっという間に離れていく。抓んだ埃の塊を吹き飛ばしたアカギは、穂香の机に軽く腰かけながら携帯端末を弄って「あいつらまだ帰ってこねェのか」とぼやいていた。
* * *
まるで現実味がない。足元の小石を蹴り転がし、そんなことをふと思う。
父はすっかり元気になって帰ってきたし、自分が感染していたことも覚えてなどいなかった。他の見知った誰かが感染者になることもなかったが、国内の情勢は悪化の一途を辿っている。
“植物が急に白くなる病気”が全国的に流行り、まず、野菜の値段が高騰した。それに合わせて各地で奇妙な結晶が頻繁に発見され、北海道の山奥では人間の形をした結晶が見つかった。こうなると、あとはもう出るわ出るわの異常事態だ。
ニュースでは、ほぼ毎日のように陰惨な事件の報道がなされている。その大半が感染者によるものらしい。国が変わっていく様をまざまざと見せつけられているというのに、それでもどこか映画かなにかのように感じた。
少しひんやりした風に髪を撫でられる。足下で落ち葉が転がっていく音が、金木犀の香りとあいまって秋の訪れを告げていた。
もうすぐで紅葉の季節だ。木々も色を変えるのだから、自分も髪色でも変えようか。今は明るい茶色だが、もう少し暗めの色にしてもいい。今のボブも気に入っているが、そろそろ伸ばすのもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、自動販売機で缶コーヒーを買ってきたナガトが戻ってきた。
近所の公園のベンチに腰掛け、遊具で遊ぶ子ども達を遠目に見ながら言葉を交わす。彼とこうして昼間に外で会うのは久しぶりだった。
「結構な騒ぎになってきたみたいだね」
「そうやなあ。ニュースでも白の植物が毎日出てるわ。あれ全部に感染力があるん?」
「いや、そういうわけじゃないよ。ただ色が変わっただけのもいる。白いからって全部が全部危険なわけじゃないから、過剰に怯える必要はないよ。――まあ、大量摂取すればそれなりに影響はあるだろうけど」
あまり食べない方がいいらしい。過剰に怯える必要はないが、それでもできれば近づくなとナガトは言った。素人には危険かそうでないかの判断がつくわけがないので、それも当然だ。
遠くで子どもが転んだ。わんわん泣き叫ぶ女の子に、少し年上らしい男の子が手を差し伸べている。――ああいうんが初恋になったりするんよな。自分にもある甘酸っぱい思い出に、どこかむず痒くなった。
「で、呼び出したからにはこないだの虫の話してくれるんやんな?」
夜中にアカギを呼び出した理由は一匹の蜘蛛だった。
穂香の部屋に真っ白な蜘蛛が出た。震える声で穂香に呼ばれて殺虫剤片手に部屋に入ったのだが、そのあまりに奇妙な姿に手が止まった。観葉植物の棚にいたのは、美しいとさえ思える姿の蜘蛛だった。呼び出したアカギは簡易検査薬で感染力の有無を調べたのち、「こちらで調べておく」と言って蜘蛛を持ち帰ったが、それ以来あの蜘蛛に関して詳しいことは聞かされていない。
「ちょっと会える?」そう言ってきたのはナガトの方だ。あれこれ質問するだけの時間は十分あるのだろう。納得いく説明をしてもらうまではこちらも引き下がるつもりはない。
「んー、正直、まだちょっとよく分からないんだ。ハインケル博士と室長さんが調べてるけど、どうにも新種らしくてね。……ま、簡単に言えば、うちでも見たことのない進化がこのプレートで起こってるってこと」
「それってヤバない? 大丈夫なん?」
「ヤバいだろうねー。あの蜘蛛自体に感染力はないけど、どこでどう変わるかも分からない上に、結晶化も最近増えてきてるし……」
「結晶化ってなに? なんでそんなことなるん?」
ナガトと話していると、まるで自分が幼稚園児に戻ったように思える。すぐになんでなんでと聞いて回るのは、小さな子どもの特権だと思っていたのに。
彼は綺麗に笑った。とても自然で、芸能人やモデルが雑誌で浮かべている笑顔を彷彿とさせた。それが困ったときに誤魔化そうとして浮かべる笑顔だということは、この数ヶ月で理解していた。
だが、逃がす気などさらさらない。
「あたしを呼び出した理由、どうせ白の植物に関することなんやろ? わざわざほのと引き離すってコトは、結構重い内容? 虫の話かと思ったけどそうでもないみたいやし、スパッと言ってくれん? あたしらには知る権利があると思うんやけど」
「……やっぱりきみ、手強いね。流されてはくれないんだ?」
「お望み通り流されたら、一切危険がなくなるん?」
真顔で問いかければ、お手上げだと言うようにナガトが首を竦めた。