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レベルD感染者に関する上の判断はまだ下りてこない。臨時施設を設けて一時収容しているが、それもすぐに追いつかなくなるだろう。
感染者の接近を告げるアラートが鳴り響いている。不慣れな新米隊員は緊張した様子で額に汗を滲ませていたが、その脇を涼しい顔で擦り抜けてゴーグルと銃器を手にし、艦を出た。
重い軍靴の底で踏みしめた丈の短い草の一部は、白く変色していた。風が吹く。ぱりっと乾燥している風だ。赤茶けた砂を乗せた風がゴーグルを叩く。
「――レベルは」
『レベルS。殺処分対象だ、迷うな』
「了解」
通信機から聞こえたその声は、どこまでも落ち着いていた。ついていくと決めた、カガのものだ。ハルナは一つ深呼吸をして、銃を構えた。照準を合わせる。涎を垂らしながら凄まじい速さで走り寄ってくる人とは思えぬその姿に、近くにいた新米隊員が引き攣れたような悲鳴を零す。
転ぶようにして倒れた瞬間、上体から花が咲いた。真っ赤な花だ。――血に染まった、白い花。胸の中央からぱっくりと口を開くように咲いたそれは、肉を食い破った化物だ。耳の穴からは蔦が伸び、脳を食われているのだと知る。ぼたぼたと血混じりの白濁した唾液が零れる唇の向こうから、舌の代わりに肉厚の花びらが覗いていた。
もうそれは、人ではない。
胸を突き破って咲く花の中央。そこに見えた核に向かって、ハルナは一瞬の躊躇いもなく引き金を引いた。
「……誰が死ぬか」
たとえ誰かを殺しても、守るためには生き延びなければならない。
* * *
空はすっきりと晴れ渡り、心地よい風が吹いていたが、穂香の心はどんよりと曇ったままだった。部屋の中が泥で埋まってしまったかのように、重苦しく感じて身動きが取れない。一歩でも動けば刺されそうなほどの威圧感を覚えながら、穂香は必死で息を潜めてベッドの上に縮こまっていた。
棚の上の観葉植物を今にも射殺しそうな目で一鉢ずつ確認しているのは、よりにもよってアカギだった。先日、夜に来たときもなにか薬をかけて確かめていたが、それだけではまだ足りなかったらしい。
珍しく玄関から訪れた彼は、電気工事の業者のようなつなぎを着ていた。それだけでも十分驚いたというのに、彼は「詳しく調べに来た」とだけぶっきらぼうに言って家に入ってきたのだから余計に困惑した。
家には誰もいない。両親も奏も出かけていて、一人で留守番をしていたときだった。もちろん両親の不在を見越してきたのだろうけれど、この恰好は一体なんなのだろう。奏ならばすぐに訊ねたのだろうが、穂香ではそうもいかない。竦み上がった舌は口の奥の方で鳴りを潜めている。
すべて調べ終わったのだろう。薬液と装置を鞄に仕舞ったアカギが、相変わらずの仏頂面でこちらを振り向いた。その表情の険しさに、我慢しきれず肩が跳ねる。
「――終わったぞ。全部無事だ。感染してる花はねェよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
俯く視界に、長い黒髪が縁を作る。目を見て話さなければ失礼だと思うのに、どうしても顔を上げることができない。最初のあの夜以来、アカギに対する苦手意識はどんどん強くなるばかりだ。彼は穂香を見るたびにどこか鬱陶しげな顔をする。そんな顔を見てしまったら、もうまともに目を合わせることなどできそうにもなかった。
声なく責める、その視線が怖い。心の奥底までを見通すような、鋭い眼差しが怖い。どくどくと心臓が早鐘を打ち、不安が穂香を喰らい尽くす。沈黙によって身を引き裂かれそうな苦痛を覚え、胸の痛みを押し殺すように唇を噛み締めた。
カーペットの上を擦る微かな足音が近づいてきたと思ったら、ふっと影が落ちてきた。反射的に見上げた瞬間、目の前に迫りくる大きな手に、雷に打たれたように身体が震えた。
一瞬で手が止まる。ぴたりとかち合った目を先に逸らしたのは、穂香ではなくアカギの方だった。
「頭にゴミついてっから、取ろうとしただけだ」
「あ……、す、すみません……、私、」
――恥ずかしい。
羞恥に火照る頬を見られたくなくて俯けば、アカギの舌打ちが鼓膜を叩いた。「いちいち怯えてんじゃねェよ」苛立ちの滲んだ独り言に、きゅっと胸が締め付けられる。胃の奥に氷を無理やり詰め込まれでもしたかのようだ。身体の芯から冷えていく。
目の淵がじんわりと熱くなってくるのを感じ、穂香は懸命に意識を余所に向けた。このまま泣けば、彼の機嫌はさらに悪化してしまうだろう。
「くそ……、だからナガトに任せるっつったのに……」
窓の外を見ながらの独り言に、精一杯の勇気を出して唇を割る。
「あ、あの、ナガトさんは……?」
「お前の姉貴と出かけてる」
初耳だ。きょとんとする穂香に、アカギも訝しげに「聞いてねェのか?」と首を傾げている。
聞いていない。奏は「ちょっと出かけてくる」とだけしか言っていなかった。別に嘘を吐かれたわけではないが、なんともいえない寂寥感を感じて冷ややかな風に心を撫でられる。相手がナガトならば、一言言ってくれてもよかったのではないか。そんな思いが湧き上がり、頭の片隅でどこか裏切られたように感じている自分に嫌気がさした。