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「え……?」
中に入ると、ぐちゃぐちゃになった靴が穂香を出迎えた。息を呑む。ヒールのままお構いなしで家に上がるミーティアのことなど、もはやどうでもよかった。
壁にもたれて気を失っている母のもとへ、転がるように駆け寄る。
「お母さんっ! どうしたんですか!?」
軽く頬を叩いてみたが、反応はない。仰向きにさせた瞬間、ひっと悲鳴が漏れた。年相応の皺が刻まれた優しげな顔立ちに、血の痕がべっとりとついている。
涙ぐむ穂香の耳に聞こえてきたのは、背筋が凍りそうな怒声や物音、そしてミーティアの場違いな鼻歌だ。
父のものと思われる怒号に紛れて、覚えのある男達の声が聞こえてくる。すぐにぴんときた。ナガトとアカギ。あの二人だろう。
ミーティアがリビングへと消えていく。凄まじい音は鳴りやまない。どうなっているのか確認しに行きたくても、足が竦んで一歩も動けそうになかった。
そして突然、一発の銃声が響き渡った。
「え……?」
弾かれるようにして立ち上がり、すぐに顔から転んだ。四つん這いになってリビングへと向かう。散乱したガラス片があるせいで、これ以上は近づけないというところまで来たとき、穂香はやっと顔を上げて――絶句した。
「なに、これ……」
そこに広がる地獄絵図は、穂香の想像を絶していた。荒れ放題の空間。テーブルの上に放心状態で座っている姉は怪我だらけで、彼女の前には驚いた表情の二人の男がいる。穂香に背を向けるようにして立っているミーティアの手には、鈍く光を弾く拳銃が握られていた。
――そして食器や果物、パンなどと一緒に、床には父が力なく横たわっている。所々落ちている血痕に、引きつった悲鳴が唇から逃げ出した。
こんな光景は、テレビの中の世界だと思っていた。
「――That's all right. ダイジョブ、ホノカ」
にこりと笑みを向けながら言われた台詞に、先に反応したのは奏だった。
「だっ……大丈夫なワケないやろ人殺し! あんたらほんまなんなん!? 殺してやる!!」
「落ち着け! 死んでねェよ! だから暴れんなっ!」
「うっさい離せっ! あんたらまとめて殺してやるっ!!」
掴みかかろうとする奏をアカギが必死に押さえているが、ミーティアはくすくすと笑うだけで危機感も罪悪感も感じていない様子だった。
「死んでない」その言葉が穂香の正気を呼び戻す。倒れている父に目を向けると、様子を見終わったらしいナガトと視線がかち合った。
彼はそこで初めて穂香の存在に気がついたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて近づいてきた。震える穂香の頭を撫でながらしゃがみ、「大丈夫だよ」と声をかけてくる。その手には、刃物でついたような切り傷があった。
「大丈夫だよ。びっくりしたね。きみのご両親は無事だよ」
「そ……」
――そうですか。恐怖に犯された喉は、声を発することを放棄している。ナガトが気遣うように肩を叩いた。
「お父さんの方は感染しているけど、薬を打ったからもう大丈夫。お母さんも軽傷だよ。ちょっと額の、ここんところを切っただけ。うーん……むしろ、お姉さんの方が重傷かな」
ナガトが言うように、奏の身体は切り傷だらけだった。あちこちから血が滲んでいてとても痛々しい。顔色も真っ青だ。
ミーティアはナガトに英語でなにかを話しかけたが、彼は苦笑混じりに耳を指差し、そして手話に似た動きでなにかを伝えた。「Okay」歌うように呟いて、ミーティアが耳元をいじる。彼女は何度か咳払いをしたあと、満足そうに笑って言った。
「初めまして、テールベルトの兵隊さん。アタシはビリジアン政府直轄、白植物科学捜査研究室室長のミーティアよ。よろしくね」
唐突に流暢になった日本語でミーティアはそう言うと、辺りを見回して首を傾げた。
「ところで、ハインケル博士はどこかしら?」
* * *
まったくもって、やってられない。
そうぼやいて、鳩のあとを追う。先に上空から緑の豊富な場所を確認した鳩は、時折後ろを振り向いて案内を続けてくれた。
空が高く、透き通っている。空気に汚れはみられるが、あの独特な汚染はない。通りのあちこちに緑が溢れていて、それがとても新鮮だった。
研究所ではガラスケースに保管された緑を見ているため、これほど無造作に扱うことは考えられない。町にも僅かに天然の緑が見られ始めているが、それは特別浄化地域に限られている。特別浄化区域など、庶民には縁遠い場所だ。町中に天然の緑が芽吹くことは、まだまだ難しい。
――それに比べて、この世界ときたら!
高揚する気持ちを抑えきれず、思わず笑みが零れた。至る所に色のついた植物が溢れ、人に見向きもされず踏まれたりしている。美しい花は店先で売られ、個人の家でさえ植物が当たり前のように植えられていることも多い。
この世界は、まだ白の穢れを知らないのだ。
いきなりこのプレートに渡れと言われたときには大いに不満に思ったが――そして今でも思っているが――、こうして研究対象があちこちに存在していることは評価できた。
そもそも、自分は実地向きではないのだ。研究室にこもり、電子機器やサンプルと向き合っていることの方がよほど性に合っている。
そうだ。生の感染者なんて、遭遇していいものではない。新薬や武器を研究する以上、感染力の高い植物や感染者を対象にすることには抵抗はない。だが、それはあくまで立派なガラス越しの話であって、直接対峙するわけではない。
そんなことは、野蛮な軍人共がやっていればいい話だ。
野蛮な軍人――今朝方だって、突然出頭命令が下り、無理矢理個人用の小さなヴァル・シュラクト艦に押し込まれた末に「説明は追ってする」とたった一言告げられてこのプレートに飛ばされた。あのときの笑顔の基地司令が怖かった。