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「Freeze!」

 聞き慣れないそれが警告だということは、雰囲気で分かった。意味を理解する間もなく、反射的に身体が制止する。
 視線を声のする方へ向けた瞬間、鼓膜を破りそうな破裂音がパァンッ!、と鳴り響いた。

「Hello, glad to meet you.」

 運動会でよく聞くあの音よりも遥かに大きく乾いたそれに、びりびりと鼓膜が震えている。どさりと、父が崩れ落ちた。
 扉にもたれ、見知らぬ女性が微笑んでいる。彼女は肉厚な唇を、手にしたものに押し当てた。
 黒い塗装が施されたそれは、やはり運動会で見たものや、おもちゃ屋、テレビの中などで日常的に目にするものだ。けれど、この日本においては、非日常のものでもあった。
 女性はたおやかな手でそれをくるりと一回転させ、妖艶に微笑みながら奏に向かって銃口を向けた。

「――Bang!」


* * *



 放課後に寄り道したファストフード店で薄くなったアイスティーを飲みながら、郁は黙り込んだままの携帯を見て溜息を吐いた。いつまで待っても、小さな箱は震えてくれない。
 冷えたポテトを齧っていた夏美が、ノートの上に零れた塩を手のひらで払った。二人とも一応参考書は広げているけれど、成果があるとはいえなかった。どうせこれから塾で嫌というほど勉強するのだから、少しくらいは休みたい。そう思うものの、謎の迫力美人に連れ去られるようにして帰っていった穂香のことが気になって落ち着かなかった。

「最近さあ、ほのちゃんなんかおかしない? キョドってるんはいつものことやけどさ」
「そりゃ、あんなことがあったあとやもん。落ち着いてはいられへんやろ」

 佐原孝雄のことは誰もが知っている。そして穂香の父親が、どんな風に彼と関わったのかも。
 郁だって、もしも自分が同じ状況に追い込まれれば普通に振る舞えるか分からない。それでも穂香は、学校を休むことなく登校している。どれほど好奇の視線に晒されようとも、彼女は最後の最後で逃げ出したりはしなかった。
 青褪めた顔で俯き、唇を噛み締めて拳を震わせる様は痛々しい。だからこそ、友人としてできる限りのことはしてあげたくなる。
 今日のことだってそうだ。穂香はあの謎の美人のことを「家族の知り合いかも」と言っていたが、どう見たって彼女は怯えていた。心配であれから何度か電話をかけているが、留守番電話サービスに繋がって応答はない。折り返しの電話もなければメールもない有り様だ。

「なんかヘンなことに巻き込まれてへんといいけど。今から家行ってこようかなぁ」
「今からって、塾は?」
「ちょっとくらい遅れても大丈夫やろ。それよりほのちゃんの方が、」
「……郁さあ、ほのちゃんに対して過保護すぎ」

 むっとしたような言い方に、郁は一瞬なにを言われたのか理解できなかった。「ナツ?」聞き間違いかと問いなおせば、夏美が苛立ちを隠せない様子でストローを噛む。

「あたし達、今めっちゃ大事な時期なんやで。分かってる?」
「分かってるよ、そんなん。でも今は……」
「――正直あたし、ほのちゃんのこと好かん」
「は? ちょ、ナツ、急にどうしたん。なに言ってんの?」

 視線をテーブルの上の紙屑に注ぎながら、夏美は煩わしそうに零れ落ちた髪を掻き上げた。卒業したら茶髪にすると断言していた、綺麗な黒髪だ。

「あの子、いっつも郁の後ろついてくるばっかり。自分の意見とか全然言わんやん。こっちが言わななんもせんし。おどおどびくびくしてて、冗談言うのも気ぃ遣う」
「ほのちゃんが大人しいんは元からやん。それに、聞いたらちゃんと自分の意見だって言うし!」
「そんなん郁が聞いてやっとやろ? 別に、ほのちゃんのこと嫌いやって言ってるんちゃうよ。ただ、ああいう中途半端な態度が好かんの。あたしやはっちゃんにはどっかよそよそしいし」
「こないだの旅行中、楽しそうに喋ってたやん!」
「あれは郁が誘ったからやろ。せっかくの旅行やのに、雰囲気悪くさせてどうすんのよ」

 小さな棘がいくつも刺さる。郁を通して穂香へと無数に放たれたそれは、郁の両手ではとてもじゃないが受け止めきれない。
 ――どうして。旅行中、穂香と楽しそうに話していた夏美や春菜の姿なら、昨日のことのように思い出せる。それなのに、どうして今こんなことを言い出すのか理解ができない。

「とにかく、あたしはちょっとあの子と距離置きたい。はっちゃんも同じ意見やから。あの子と一緒におるとあたしらまで暗い子やって思われんの嫌やもん」
「ちょっとナツ!!」
「郁があの子を気にかけるんは自由やけど、相手ももう子どもやないんやし、ほどほどにしといた方がええんとちゃう?」

 さっと参考書を片付けてトレイを下げようとする夏美を、郁は慌てて追いかけた。落ちた筆箱からペンが飛び出し、拾い集めるのに時間がかかる。
 塾へと向かう道中、郁は夏美の誤解を解こうと必死だった。穂香は人より少し臆病なだけだ。夏美達に対してよそよそしい態度を取っているわけではない。
 目の前の問題に夢中になっている郁は、先ほどまで考えていたことをすっかり失念してしまっていた。
 もしもこのとき穂香の家に様子を見に向かっていたら、彼女達を取り巻く運命はもう少し違うものになっていたかもしれないのに。


* * *



「なに、これ……」

 目の前に広がる光景に、穂香は息を切らせながら絶句した。言葉という言葉が浮かんでこない。


 学校から逃げるように飛び出した。そんな思いが、穂香の胸を罪悪感と不安感で埋め尽くす。手を引くミーティアは高いヒールを軽快に打ち鳴らし、それこそ馬のようにポニーテールを上下に揺らして楽しそうに笑っている。いかにもエリートのキャリアウーマンといった雰囲気で、黒縁眼鏡の奥の瞳をきらめかしていた。
 待ってと言っても彼女は聞かない。困惑する穂香が見覚えのある道を通っていることに気がついたのは、自宅の前についたそのときだった。
 なぜミーティアが穂香の家を知っていたのか、定かではない。彼女は微笑みながら訊ねてきた。「ホノカのおウチ?」ぜいぜいと悲鳴を上げる胸を押さえながら頷くと、ミーティアは躊躇いなく門を抜け、玄関を開けた。
 慌てて後に続いたが、玄関のすぐ脇に姉の使っている鍵が落ちていることに気がついて、なぜかぞっとした。猫のキャラクターのキーホルダーがついているから、奏のものに間違いがない。


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