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「嫌や、なんで、なんでよぉっ!」

 叫びも虚しく、思い出の大皿が宙を舞う。勢いよく飛んできたそれを両腕で庇ったが、鈍い痛みが骨を走った。落ちた皿が甲高い音を立てて割れる。大皿と共に、心まで割れた気がした。
 もう嫌だ。後ろ向きに這いずったその背に、壁がぶち当たった。
 退路を断たれた奏の目の前に、優しかったはずの父が刃を振り下ろす。迫りくる痛みを予想し、きつく歯を食いしばって目を伏せた。

「――おいっ、無事か!?」
「え……? あっ、あんたっ……!」

 切りつけられた痛みはない。
 ぱしゃん!、と勢いをつけた水の音が聞こえたと思ったら、父は顔を両手で押さえて蹲っていた。その口からは苦しげな呻き声が漏れている。
 傷だらけの奏の腕を掴んで無理矢理立たせた男には、見覚えがあった。忘れもしない、あの奇妙な夜――奏を後ろから羽交い締めにした長身の男だ。確か、アカギと名乗ったはずだ。
 ひどく苦しんでいる様子の声に、はっとした。勢いよく液体をかけたようだが、あれは酸かなにかだろうか。よろけながらも父は立ち上がり、手にした包丁の切っ先をアカギへと向けた。舌打ちが頭上で鳴る。

「薬液反応ありか。完全にツかれてやがんな……。ナガト! こいつ頼むぞっ!」
「えっ、きゃあああっ!」

 両手で腰を捕まれたかと思うと、一瞬にして足が床から離れた。持ち上げられたのだと自覚するよりも早く、ぶんっと身体が投げられる。恐怖に硬直する奏に訪れた衝撃は、硬いフローリングでも壁でもなく、程良い温もりを持った人間の感触だった。
 恐々目を開ける。確認せずとも分かっていた。あの男がアカギなら、今自分を受け止めている男はナガトに違いない。

「たっくさー、パスしろっつったけど、女の子ぶん投げるバカがどこにいるんだって話だよね。ごめんね、怖かった?」
「あ……」
「おっと、大丈夫? ……ん? ああ、そっか。手と足、切ってるね。だからか」

 なにが「だからか」なのは分からなかったが、手足の切り傷を指摘され、ようやっと奏は自分の身体に意識を向けた。ぱっくりと割れた手のひらから鮮血が流れ出るのを見た瞬間、先ほどまで痛みを感じていなかったそこが急激に痛み出す。膝や太股も切っているらしい。立っているのもやっとだ。
 床には数え切れないほどの破片が散乱している。こんなところを這い回っていたのだから、切り傷だらけになるのも当然だった。
 ひょいっとナガトに片腕で抱えられ、奏は慌ててその腕を掴んだ。まだこの場から離れるわけにはいかない。

「ん? なに? あっちはアカギに任せておけば大丈夫だよ。とりあえず、安全なところへ避難して手当しないと」
「むり! なんなん!? なにがあったん!? あいつ、父さんになにする気!?」
「こらっ、危ないから暴れないで! 大丈夫だって、別に危害加えるわけじゃな――……あ」
「――うるぁっ!!」
「うグァアアアアアアっ!」

 ごっ、と鈍く凄まじい音と共に、アカギの蹴りが父を襲う。激しく床を転がる父の姿に、奏の中でなにかが切れる音がした。

「なっ、にしとんねん!!」

 ナガトを突き飛ばして力任せに腕から逃げ出し、足の怪我など素知らぬふりで駆けて、アカギに全力で当て身をしてやった。
 思いも寄らぬ方面からの攻撃ゆえか、屈強な男の身体がぐらりと揺れる。そのままバランスを崩してダイニングテーブルに背中をつけた彼に、半ば馬乗りになるような体勢で詰め寄り、奏はアカギの胸に思い切り拳を叩きつけた。

「あんたっ、殺す気か!」
「は!? おまっ、ふざけんな! とにかくどけ! 危ねェだろうが!」
「どうせあんたらが父さんになんかしたんやろ!? ええ加減にせぇよ!!」
「違うっつってんだろ! ――っ、あぶ、」

 目を見開くアカギの双眸には、奏の背後で包丁を振り上げる父の姿が映り込んでいた。恐怖に身体を竦ませる奏の後ろから、身体と身体がぶつかる音が聞こえる。

「たっく。無駄口叩く暇があるならさっさと動けっての、バーカ」
「お前がこの女見とかねェからだろうが!!」

 父の腕を掴み、ナガトが巧みにその腕を捻り上げて包丁を床に落とさせる。素早く足を捌き、体勢を変えながら手の届かないところまで包丁を蹴り飛ばすと、狂ったように叫びながらもがく父の身体を拘束しようと、彼は全力で奮闘しているようだった。
 その場に転がされるようにしてアカギの上からどかされ、奏はダイニングテーブルに腰掛けたまま、二人の男が父を押さえようと奮闘する場面を見つめることしかできなくなった。身体が動かない。声が出ない。これが現実だとは思えない。
 父は確かにそれなりの上背があるが、力が強い方ではなかった。彼らが本当に現役軍人ならば、到底敵うとは思えない。そうでなかったとしても、若い男二人に抑え込まれて抵抗できるだけの力などないはずだ。それなのに、今の父は二人がかりでも苦労するほどの反撃を見せている。
 「暴れんな!」アカギの怒号が飛ぶ。父が大きく吠えるのと同時に、凛としたよく通る女性の声でその場が満たされた。


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