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「母さん!? どうしたん、母さんっ! あっ、ボク待って!」

 異様な空気を恐れたのか、少年はくたくたの白衣を翻して逃げるように走り去っていった。引き留めている余裕はない。焦りによって鍵がうまく回らない。やっとの思いで扉を開け放つのと同時に、鍵は乱暴にその場に放り投げていた。

「母さんっ! ひっ……母さん!? どうしたん、なあ! 起きて、なにがあったん!?」
「う……」

 玄関に入ってすぐ目に飛び込んできた光景は、玄関マットの上に倒れ込む母親の姿だった。急激に血の気が引いていくのを、奏は自覚した。
 額が切れているのか、顔の半分を赤い血が覆っている。真っ赤に染まった肌は、嘘みたいな光景だった。割れた花瓶が散らばっているのを見る限り、殴られたかぶつけたかしたのだろう。
 頭をぶつけた可能性があるときに身体を揺さぶることなどもってのほかだったが、パニック状態に陥っている頭で冷静な考えができるはずもなかった。激しく肩を揺さぶり、母の苦しげな表情が少しでも和らぐことを祈って呼び続ける。
 なにが起きた。なにがあった。どうしてこんなことになっている。焦りに滲みそうになった涙を必死で殺し、奏はひたすら母を呼ぶ。
 ここのところの騒動で少しやつれた母は、薄い唇をほんの僅かに震わせた。

「え、なに? なんてっ!?」
「――さ、ん。おと、う、さん……」
「――父さん? ちょお待ってて、今電話するから!」

 仕事中の父が出るかどうかは不明だが、もし気づかなければ職場に直接電話しよう。震える手で携帯を取り出したそのとき、先に警察と救急車を呼んだ方がいいことに気がついた。
 言うことを聞かない指先でダイヤルする。たった三つのボタンを押しきる前に、異様な衝撃が奏を襲った。

「うぉおおおおオオオオッおああああゥアアアアアあああああっ!!!」
「ッ――!? な、なに……?」

 獣の咆哮。
 ――いや、違う。あれは人の声だ。家の奥、リビングの方から男性の絶叫が轟いてきた。喉が壊れそうなほどの叫びと、次々に物が薙ぎ倒されていく音。最初に思ったように、まるで獣が暴れ回っているかのようだった。
 戦慄が走る。あってはならないことが起きているような気がした。

「う、そ、やろ……? 父さん……?」

 この咆哮は、父の声とよく似ている。
 思考が追いつかない。なぜ会社にいるはずの父がいるのかだとか、なぜ母が怪我をして倒れているのかだとか、この叫び声、惨状はどういうことなのかだとか、全部。
 誘われるように、奏はふらりと立ち上がった。何度も転びそうになりながら、リビングとダイニングに続く扉を開ける。
 その先に広がっていたのは、信じられない――信じたくなどない、地獄絵図だった。
 母が絶対にこれがいいと言って聞かなかった白いビーンズ型のテーブルの上には、昼食の残りや、調味料、割れた食器の破片が散乱していた。引っ越す前の家から使っている古い食器棚は扉が開け放たれ、ほとんどの食器が床に落とされている。水は勢いよく流され、あちこちに投げつけられたらしい卵が、でろりと嫌な模様を作っていた。
 地震かなにかが起きたのかと目を疑いたくなるような惨状の中、目を真っ赤に充血させ、飢えた獣のように荒い呼吸を続ける父の姿があった。
 ――誰。
 別人へと変わり果てた父と目が合った瞬間、腰から下の力が抜けた。勢いよく尻餅をつき、全身に痛みが突き抜ける。
 手のひらが熱い。ちゃり、と音がしたから、割れたガラスで切ったのかもしれない。
 心臓だけが我先にと駆け出した。吐き出される血流の速さに耐え切れず、こめかみのあたりがずくりと痛む。

「とう、さ……」

 温厚なはずの父は、もはや見る影もなかった。腰を曲げ、ぎらぎらと目を光らせ、口の端から涎を垂らしてじりじりと近づいてくるこの悪魔のような男が、父のはずがなかった。なら、これは誰だ。――分からない。ただ、恐怖だけが質量を増していく。
 父のようなその男が、奏を見て口角を上げた。白濁した唾液にまみれた、その口角を。
 膨れ上がった恐怖で喉の奥が塞がり、「助けて」とも「やめて」とも叫べない。ただ這うように後退するだけで精一杯だ。
 父の姿を借りた悪魔の手には、母の手にしっくりとなじむ包丁が握られていた。悪魔は迷いなく、その切っ先を奏に向ける。そんなはずはない。あの手が、傷つけるはずない。
 そうでなければ、ならない。

「いや……、父さん……っ、なあ、父さんっ!」
「ふ、ヒヒっ、ははハ!」
「あたしやって、なあ、父さん! 奏やって!! とぉさんっ!!」

 おぞましい唸り声と風切り音が振り下ろされる。縮こまった足の先、僅か数センチというところに刃が突き立てられていた。
 ――なんで。
 恐怖に呑まれた身体は、あっさりと熱い雫を吐き出した。目の前が滲む。充血した瞳をぎらつかせ、父は再び幽鬼のように立ち上がった。
 尻餅をついたまま、腕の力だけで床を這う。なんとか四つん這いになり、頼りにならない手足を懸命に動かして逃げた。

「ぁ、アア、ぐへッ!」

 歪な笑声と共に、奏のすぐ目の前でグラスが弾けた。反射的に身を竦め、見なければいいのにわざわざ振り返って後悔する。包丁を持つ手とは反対の手に、父は次の得物を構えていた。中学生の頃、修学旅行で奏がお土産に買ってきた焼き物の大皿だ。


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