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「ドルニエ博士! 例の鳩ですが、術後研究員が縫合したようです! ですがっ」

 スツーカの無事に安堵する間もなく、言葉を続けかけた部下を遮るようにハインケルが膝を折った。苦しげに咳き込み、必死に呼吸を整えている。額から滴り落ちるのは汗か水か、そんなことも分からないくらいに彼はずぶ濡れだった。

「あ、アンタだって、完璧なんかじゃないじゃない! アタシはもっと、もっと上に行くのよ! アンタよりずっと上のっ、」
「無理だよ、ドルニエ。──お前は、僕には敵わない」

 痛苦に歪んだ顔で、ハインケルは笑う。
 世界で最も憎い男が、ドルニエを嗤う。
 足でも撃ち抜こうと激情に任せて拳銃を構えた瞬間、スピーカーが不愉快なハウリングを響かせた。ざわめきが流れる。喧騒を、女の声が蹴散らした。

『──ハァイ、聞こえますかしら?』

 弾かれたように天井を睨むドルニエに、女の声は畳み掛ける。

『こちらは万事つつがなく進んでおりますわ。おちびさんも無事ですわよ』
『くるぅ〜』

 愛らしく響いた鳩の鳴き声。上品な口調ながら、気の強そうな女の声。
 ドルニエの手から拳銃が零れ落ちる。
 計画が思い通りに進まない。どこで間違えたのだろう。どう直せばいいのだろう。どうすれば、この憎たらしい男はドルニエに泣いて負けを認めるのだろう。

「こんなっ、こんなこと、したって、アンタはもう国に捨てられたのよ! もう全部遅いわ! 生きて帰ったって、アンタはもう必要とされないのに、どうするつもり!?」
「……うん、どうにかするよ。お前が一番よく知ってるでしょう? 僕らの一族は、目的のためなら常に手段を択ばなかった」

 そうだ。
 ドルニエも、ハインケルも、その両親も、祖父母も、曽祖父母も、皆。いつだって自分の目的を果たすためなら、手段を択びはしなかった。
 まだ策はあるはずだ。きっとどこかに道がある。そう思うのに、手足が震えて動かない。負けたくない、認めたくない。負けたわけじゃない。──アタシは、誰よりも優秀なんだ。
 ドルニエの背後で銃声が響いた。次いで防衛員の怒声、悲鳴、呻き声が順に響く。傍らにいた男が倒れる。太腿を撃たれたのか、足を庇ってのたうっている。

「──お迎えに上がりましたよ、ハインケル博士」

 テールベルト空軍の軍服を纏った男が、ドルニエの後頭部に銃口を突きつけながら言った。もう一人の眼鏡の男が、ハインケルを支えて立ち上がらせる。去り際に部下の一人が落とした端末を拾い上げたハインケルは、擦れ違いざまに疲れ切った顔で、またしても笑った。
 笑顔なんて、見慣れていない。ドルニエの記憶にあるハインケルは、いつだって自信なさげな、怯えた表情をしていた。
 臆病羊のハインケル。それが、兄であったはずなのに。

「お前は昔から、詰めが甘いんだよ。元に戻したりしなきゃ、僕は全部忘れてたのに。──お馬鹿さん」

 嘲笑が脇を抜ける。
 偽りの緑が燃え盛る。後頭部に突きつけられた銃口がいつ離れたのか、ドルニエには分からなかった。気がつけばその場に座り込み、呆然と炎を見つめていた。
 ──違う、アタシは、負けてなんかいない。

「う、くっ……、うあああああああああああああああっ!!」

 負けてなんか、ない。


* * *



 温室を出るなり、ハインケルは膝から崩れ落ちた。スズヤに肩を支えられていたため床に倒れ込むことはなかったが、それでももう一歩も歩ける自信はない。座り込んだ身体をすかさず抱き上げられる。上背は今のハインケルの方が高いというのに、スズヤはけろりとしていて表情一つ変えなかった。横抱きではないのがせめてもの救いだろうか。
 ガンガンと音を立てている頭が割れそうだ。心臓も食い破られそうなほどに痛い。身体の急激な変化についていけず、核のコーティングが緩んだのだろう。発症スピードを遅らせる薬でも飲まなければ、この身体は白に蝕まれる。そうなれば、彼らの身にも危険が及ぶ。
 そのまま連れて行かれた部屋にいたのは、ミーティアとスツーカだった。ミーティアの腕に抱かれたスツーカが、心配そうにくるぅと鳴く。

「ハインケル博士、こちらをどうぞ」
「ありがと……」

 ミーティアに渡された薬を飲んでしばらくすると、身体の痛みが引いていった。研究所内のどこかから拝借してきたのか、見れば彼女の傍らには薬箱がいくつか積み上げられている。
 この二人の軍人は、期待通り上手くやってくれたようだ。感染者を解放し、ハインケルの命をあえて危険に晒す。そうすれば、ドルニエは血相を変えてやってくるだろう。感染者の解放によって生じた混乱に乗じ、スツーカとミーティアを救出する。まさに狙い通りだ。
 ミーティアからスツーカを手渡され、腕の中に納まったぬくもりに安堵する。翼や腹には包帯が巻かれ、丁寧に治療されていた。どうやらドルニエの配下にも、心優しい人間がいたらしい。
 ほっと息を吐いたハインケルは、預けていた端末を机の上に広げて電源を入れた。思った通り、ジグダ燃料爆弾の設置個所を示す地図も端末の中に入っている。それを見たソウヤが、即座にヒュウガ隊に連絡した。間髪を入れずにハインケルも爆弾の起動画面を立ち上げ、解除コードを探る。
 モニターには複雑な数字と記号が並んでいた。どうやら解除には少し時間がかかりそうだ。当然ながら、今まで爆弾処理などしたことはない。だが、知識として方法は頭の中に存在している。

「できそう?」

 軽い口調ながらも、緊張した色を宿して問うてきたのはスズヤだ。

「できる、と、思う。……うん、できる。だから、なにか話しててくれる? あ、──話してて、くれますか? その方が、落ち着けるから……」
「それでは、このミーティアがお話し相手を務めますわ。ハインケル博士にお伺いしたいこと、たくさんありますもの」
「なに?」
「いつからこの子を“博士”になさったのかしら」

 微笑んだミーティアが「この子」と呼んだのは、ハインケルの膝で羽を休めるスツーカだ。
 会話しながらキーボードを叩き、タッチパネルに指を滑らせる。後ろでスズヤが「どういう頭してんの」と零しているのが聞こえたが、それでもハインケルの手は休まらない。

「僕が十六歳のとき。新薬を試すときに、記憶障害が一番怖かったから。だから、データはもちろん、“意識”も一部分けて移しておいたんだ。人工知能に脳神経系の信号をコピーして入れておけば、さほど難しくなかったから。だから、スツーカはもう一人の僕なんだよ。こういったことはドルニエの方が得意だったから、もっと早く気づくと思ったんだけど」

 二重人格かと言われたこともあるが、そう見えるのも仕方のないことだ。なにしろ、意識を分けているのだから。分かれたそれが同調するたびに本来のハインケルになり、離れれば一部が欠けたハインケルになる。もともと研究に没頭すると性格が変わると言われる性質だったから、あまり関係ないのかもしれないけれど。
 暗くなったモニターに、眉が顰められたスズヤの顔が映った。ハインケルが欠片に秘めた真実は、スズヤのような常人には理解できない感覚に違いない。自分の中にも存在した砂粒ほどの倫理観が、普通の人間には嫌悪されるであろうことを気づかせてくれていた。
 高速で文字が流れる。もうすでに必要なステップの一つはクリアしている。



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