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喉の奥で呼吸がひっくり返る。記憶が邪魔をする。幼い頃、なにをしても兄の姿が、名が、目の前にあった。こんな臆病羊に勝てないだと? ありえない。そんなことはあってはならない。ならばどうする? どう動くのが正解だろう。考えろ、落ち着け。焦燥など自分には似合わない。
葛藤するドルニエに、ハインケルは一歩分だけ近づいてきた。小さな爆発が、鼓膜を殴る。
「スツーカの中にあるデータだけじゃ足りない。よく見れば分かるはずだ。きみはそこまで馬鹿じゃない。同じ薬を作るにしても、……この身体から、血清を作るにしても。すべてのデータは、この中にある」
そう言って、ハインケルは己の胸に手を当てた。ガラス片が汚れた白衣を撫でる。あの切っ先の奥に、核を呑み込んだ心臓が蠢いているのだろうか。
「……アンタを殺してからでも、十分奪えるわ」
「言ったでしょう。殺されないためなら、僕は手段を択ばない」
そこまで聞いて、疑いは確信へと変わる。今ばかりは優秀な頭が憎かった。
ハインケルが連れていた鳩の内部から取り出したデータは、完璧ではなかった。さらりと流し見た程度では分からなかったが、よく見れば中核となる肝心な部分が抜けていたのだ。まるで未完成のパズルのようにぽつりぽつりと欠けたそれに気がついたのは、計画を実行に移してからだった。ドルニエでさえ見逃していたのだから、他の連中が気づくはずもなかった。
残るデータはハインケルが握っている。自分のペットの体内にデータを隠しておくような男が、簡単に奪える場所に保管しているはずもない。だとしたら、考えられるのは“体内”だ。
そのことに気がついた瞬間、ドルニエは目の前が白く塗りつぶされていくのを自覚した。指先が氷のように冷えていき、一瞬止まった心臓が急き立てるように早鐘を打つ。
殺すわけにはいかない。今、彼を殺せば、すべてがあぶくとなって消えていく。
ただ体内に収めるだけなら、それこそ殺せば終わる。ハインケルをどうにかするなど、少し腕に覚えのある人間にかかればいともたやすい。そんなことくらい、彼も計算済みだろう。彼が最も恐れる展開を避けるには、「殺されないようにする」に違いなかった。
「アンタ、ほんっと頭おかしいんじゃない? 自分の心臓に埋め込んだの、ソレ。わざわざ同期して? ヒトから外れる一歩手前ね!」
「それでも、これで僕は、このデータを理由に殺されることはない。僕の心臓が止まれば、データは消える。たとえ生きたまま胸を裂かれても、同期を解除しない限りは同じことだ。解除せずにそのまま外した場合、その瞬間にデータとはサヨナラだよ。研究記録はこのチップだけ。あとは、僕の頭の中に全部ある」
「脅して吐かせることもできんのよ。知らないの? 拷問ってね、心臓止めなくたってできるんだから!」
「そんな時間、あるの?」
もうすでに計画は実行されている。ジグダ燃料爆弾はあと一、二時間で爆発することだろう。そうなればこの国は焦土に変わる。
ハインケルは、ここで始末しなければならない。連れ帰ることは許されない。データを得て、ドルニエが新薬を開発せねばならないのだ。それができないのなら、ドルニエはあのプレートに帰還する意味がない。
「アンタがっ、アンタがいなくたって、アタシにはできる! 完璧じゃなくたって問題ないわ! 実験なんていくらでもすればいいのよ、もうデータは十分にある!」
「本当に? 本当に、できるの? ──知ってるよ。カクタスでいろいろやってたみたいだけど、未だに使える薬はできてないみたいだね。いい加減、見限られそうだからここにいるんじゃないの?」
──やめろ、そんな目でアタシを見るな。
自分と揃いの目も、突き刺さる周囲の目も、全部。全部、消えろ。
擦り合わせた奥歯が鈍い痛みを訴える。爆ぜる火の粉がハインケルを飾った。なにか言わなければならないのに、言葉が痞えて出てこない。
──違う、アタシは無能なんかじゃない。違う、違う、違う。
「きみ個人の裏切りか、それとも緑花院がカクタスと手を組んでビリジアンを裏切るつもりだったのかは、分からないけど。どちらにせよ、無謀な人体実験なんてカクタスのお家芸だよね。きみの飼い主は、あの国でしょう?」
「アタシは誰にも飼われてないッ!!」
誰かの下につくなどまっぴらごめんだ。顎で使って、使えなくなれば捨てて、別のものに取り換える。今までずっとそうしてきた。誰かに飼われるなんて、そんなことがあるはずがない。
ハインケルは濡れた前髪を掻き上げ、瞳を露わにして優しく微笑んだ。整った顔立ちが笑みを作る様は、かつて天使のようだと絶賛されていたものだ。よく似た顔立ち、よく似た頭脳。それなのに、いつだって彼はドルニエの前にいる。
「あの国は、生きたデータじゃないと満足しないはずだ。──ところで、僕のスツーカは元気?」
「なっ、まさかアンタ……! ねえ! あの鳩どうしたの!? 誰かっ、誰か、今すぐ確かめなさい!」
「偉いね、ドルニエ。ちゃんと気づけたんだ」
なんだ、この男は。
浮かんでいるのは綺麗な笑みだ。だがそれはとてもいびつで、狂気にまみれている。
──怖い。部下がスツーカの状態を確認するコールをかけている間、ドルニエははっきりとした恐怖を感じた。
目の前に立つこの男が恐ろしい。怯えていたかと思えば牙を剥く。静かに、けれど、確実に。牙を突き立てられるというよりも、たおやかな天使の手に首を絞められているようだった。綺麗な笑みで、優しく殺しにかかる。その落差が、なによりも恐ろしい。
ハインケルは、心臓が止まれば自動的にデータは消去されるという自分と同様のシステムをスツーカにも用いたのだろう。異なるのは、データチップが埋め込まれていたのが心臓ではなかった点だ。鳩の体内から抜き取ったところで、そこに内蔵されたデータは消えない。けれど、鳩の生体信号が感知できなくなれば、ドルニエが手に入れたあのデータは跡形もなく消える。
無論、何重にもバックアップは取っている。だが彼の言うとおり、大元のデータを紛失するわけにはいかなかった。