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アロマキャンドルのほのかに甘い香りが室内に立ち込める。
ジジ、と音を立てて揺れた炎に、小さな羽虫が飛び込んで爆ぜた。途端に焦げ臭さが漂い、安らぎの空間を台無しにする。とはいえ、最初からこの部屋には、安らげるような雰囲気など存在していないのだけれど。
炎には不思議な力があるとはよく言ったもので、美しいからといってあまりじっと見つめていると魅入られて正気を失うという迷信がまことしやかに語り継がれているほどだ。どこか“彼”に似ているな、とムサシは思い、揺れる炎に彼の姿を重ねた。風のない空間で静かに燃える炎に、その人はよく似ている。
一つ息を吐くと、ムサシはキャンドルの炎から視線を移動させ、難しい表情で息を殺している男を見た。まだ五十を越えたばかりだろうに、刻まれた皺や白髪交じりの髪はそれ以上の貫録を思わせる。
──苦労してますもんねぇ。
呟きを笑みに変えて零せば、鷲のような鋭い双眸がちらとこちらを見た。そういえば、猛禽類は蛇を食うのだったか。自然界の仕組みをぼんやりと思い出して、今度は破裂音が響くほどの笑みが飛び出した。これには、さすがの彼も訝ったらしい。
鷲のような鋭い目を持つ男──イセは、静かに佇まいを正して「どうなさいましたか」と問うてきた。
「いいえ、なんでもありません。少し思い出し笑いを」
昼間でもカーテンをきっちりと閉めきっているせいで、室内は常に薄暗い。電気もつけずにいるのは、キャンドルの淡い明かりを楽しんでいたからだ。いくつか灯せば、目を合わせるのに不自由しない程度の光は得られる。
揺らめく炎に、淡い香り。植物由来の天然の精油だ。当然安全管理が徹底された温室育ちの一級品で、一般に出回っているような粗悪品とは訳が違う。こんなもの一つでも高級品だ。学者の中には、“白”の成分を取り込むことに繋がるかもしれないと、精油の存在に苦言を呈する者も多くいる。
柔らかいオレンジ色のキャンドルは、ムサシはともかく、イセには到底似合っていなかった。もう一人、影のように静かにソファに腰を落ち着けているヤマトにもそれは同様だ。
昨夜の騒動ののち、明け方近くまで議員達に拘束されて罵倒され続けたムサシは、結局ほとんど眠ることができなかった。それはヤマトも同じだろうに、彼はいつもと変わらずそこにいる。
議員達はヴェルデ基地内に宿泊し、今も会議室でひたすら額を突き合わせているのだろう。リーダー気取りで檄を飛ばしていたのはヤマトの伯父だった。ここからどう話を持っていくのか見ものだが、その話し合いに参加する資格はムサシには与えられていない。それを惜しいとは微塵も思わないが、ヤマトすら同席させない老人達のごっこ遊びには失望よりも呆れが勝る。
くあ、と欠伸を噛み殺し、部屋の中をぶらぶらと歩き回っていたムサシもようやっと彼らの前に腰を下ろした。真正面から受け止めたイセの眼差しは、睨んでいるわけではないのにやはり鋭い。
「よく耐えてくれましたね、イセ艦長。先ほど、カガ隊から連絡がきました。無事にヒュウガ隊と合流できたそうですよ。さすがの仕事ぶりですねぇ」
苦い顔をしたイセは、数秒間を置いて「そうですか」と絞り出すように答えた。
イセとカガ、そしてヒュウガの三人の艦長の仲がとりわけ良好なことは、ムサシも知っている。彼らは青年時代から交流があると聞いているし、ムサシ自身その様子をこの目で見てきた人間の一人だ。ただの同僚というだけでなく、友人でもある二人が危険区域と化した他プレートにいる中で、たった一人こちらに残されて不動を貫いたイセの胸の内はいかばかりか。
──それも、すべてを知った上で。
「カガ隊は優秀ですからねぇ。なんたって空軍のアイドルと名高いハルナくんに、かつてのヒーローであるカガ艦長と、メディア受けする二人が揃い踏みですから。他プレートの危機を救う英雄にはもってこいの隊です」
「……ええ」
「ヒュウガ隊も無事に救出してくださったようですし、あとは彼らの頑張り次第。まあ、彼らなら上手くやってくれることでしょう」
組み替えた足の上に頬杖をつき、ムサシはにこりと微笑んでみせた。
キャンドルの炎に照らされたイセの双眸が細められ、その眉間に深い皺が刻まれる。冷静そうに見えて、彼は意外と顔に出る。冷たく感じられるのは、そうあろうと彼自身が己を戒めているせいだろう。
だから、手元に残したのだ。
イセ隊を帰還させ、カガ隊を残し、動かした。その采配にミスはなかったと早くも実感している。その証拠が現状だ。逆のパターンも考えないでもなかった。なにしろイセ隊には華がある。実績はもちろん、報道陣が気に入りそうな話題には事欠かないメンツが揃っているのだ。
だが、それだけでは足りない。待ち構えているのは、ただの“綺麗な花”だけで誤魔化されるような代物ではないのだから。ゆえに、動かす駒には選べなかった。
「緑花院のお偉方は、今頃会議に会議を重ねておられるようですが、ここまで来たらもうどうしようもありません。ハインケルくんだけでは飽き足らず、マミヤくんにまで手を出したのが運の尽きでしたね」
正直に言えば、マミヤがここまで動いたのはムサシにとっても予想外だった。いくら広い視野を持つムサシと言えど、さすがにすべての隊員の性格までは把握しきれていない。王族ということもあり格別目を向けていたものの、心の内まで見通すことは不可能だ。
想定していなかった事態ではあるものの、おかげで当初の予定より動きやすくなったのも事実だった。僥倖と呼べる出来事ではあったが、イセにとっては不運に拍車をかけたことになるのかもしれない。