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欠片に秘めた真実は *22



 当たり前のように壁を足裏で捉えて重力を無視しながら走るその姿に、思わず鼻先に笑みが乗った。もしも実際口にしていれば、鍛え方が違うのだと一笑に付されていただろう。いくら第一線の戦闘職種からは退いたとはいえ、未だ現場の人間である以上そんな屈辱を味わうのは避けたい。スズヤは咄嗟に浮かんできた「バケモノ並ですね」という台詞を飲み込み、先を行くソウヤの背中を追った。
 その鮮やかな手並みは、すでにそうと知っていてもなお、間近で見ると感心せざるを得なかった。
 背中に翼でも生えているのではないかと思うほど、ソウヤは一蹴りで随分と先へ行く。足の長さは彼の方が上だが、それでもスズヤとて短い方ではない。それなのに、少しでも気を抜けばあっという間に彼はスズヤを置いていってしまいそうだった。まるで空を飛ぶように地を駆ける彼には、翼がよく似合うのだと実感する。
 ハインケルの指示通り、スズヤとソウヤは感染者の解放のために隔離棟を目指していた。防衛員を次から次へと片付けるソウヤの後ろを追いながら、スズヤも順調に相手を片付けていく。白衣を翻して逃げ惑う非戦闘員には怪我をさせないよう、細心の注意を払う必要があった。
 やり過ぎない程度の力加減で白衣の男を一人昏倒させ、ICカードを拝借して隔離施設のロックを解除する。そこまでして初めて外の騒ぎに気がついたのか、中の研究員達がこちらの姿を見て悲鳴を上げた。

「命が惜しけりゃ今すぐ逃げろ! 怪我しても知らねぇぞ!」
「ちょっとちょっとソウヤ一尉、それ完全に悪役の台詞ですよ」
「こいつらにとっちゃ、俺らは悪役以外の何者でもねぇだろ」

 高威力の小銃を構え、ソウヤは天井に向かって発砲した。放たれた弾丸が電球を撃ち抜き、割れたガラスが光の雨のように降り注ぐ。不釣り合いに甲高い音は、天上で天使が奏でる楽器のようだ。ならばさしずめこれは、終末を告げるファンファーレだろうか。
 ソウヤの警告をきっかけに、隔離施設内は蜂の巣をつついたかのようなパニック状態になった。我先にと誰もが出口を求め、カルテや器具を放り出して逃げ惑う。先を争う人々の流れは当然滞り、醜い罵倒が辺りを支配した。それも仕方のないことだろう。自分達の穏やかな日常に、銃を持った軍人が突如として乱入してきたのだから。
 あちこちから聞こえてくる阿鼻叫喚をものともせず、ソウヤはただ静かに歩を進めていった。器用に人波を泳ぎ、部屋の奥へ向かう。吸い寄せられるようにして向かった先──分厚いガラスの向こうに、管に繋がれた感染者達の姿が見えた。
 まるで動物園のようだ。かろうじて清潔感が保たれている無機質な空間に、それらはいた。喉を掻き毟り、髪を振り乱し、唇から粘ついた唾液を零して絶叫する「ヒトであった者達」は、そこかしこにデータサンプルとして囚われているようだった。
 動物園では咆哮が聞こえるが、ここではスピーカーのスイッチさえ入れなければ、唸り声どころか足音一つ聞こえない。出してくれと訴えているのか、それとも攻撃衝動に駆られているのか、ガラスを叩く拳には白い芽と血がこびりついていた。
 机に放置されたタブレット端末には、番号が割り振られた感染者らの観察データが表示されている。床に散らばった書類も似たようなものだろう。

「やーな感じ。きっしょくわっるい」
「無駄口叩く暇あんなら働け。こいつら出すのはいいが、俺達まで感染したら話になんねぇからな」

 ほとんどの研究者が逃げ出した今、隔離施設内はしんと静まり返っていた。機械の動作音と空調の音だけが一定のリズムで響いている。そこに重なったソウヤの声は、どこまでも平淡だった。この現状を見て、彼はなにを思うのだろうか。目の前を見ながらもどこか遠くを見つめるような青い瞳を盗み見て、そんなことを考える。
 ハインケルがあの優秀な頭でなにを考えているのか、スズヤには今一つ合点がいかない。おおよそのことは想像がつくものの、姿の変わったあの博士を信用できるだけの材料がまだなかった。
 ただ、恐ろしいとは思う。強化ガラス越しに対面する感染者の存在そのものは、スズヤにとってもさほど珍しいものではない。日頃はこんな壁など挟まず対峙している相手だ。とはいえ、こんな風に彼らと長時間向き合うことはまずありえない。学生時代は映像資料で何時間も見ていた相手だが、それとこれとは話が別だ。
 聞こえないとはいえ、ガラスの向こうで猛る相手をじっと眺めていれば、ものの数時間で頭がおかしくなりそうだった。それほどまでに、彼らはもうヒトの域を脱している。けれど確かにヒトだったのだ。ひどく曖昧な境界線が怖気を生む。
 研究者達の中で、感染者はどういう位置づけなのだろうか。実験用のネズミと変わらないのか、それとも──……。
 パネルを操作するソウヤの背中越しに感染者を見ながら、スズヤはそんなことを考えていた。

「あの博士、どうしちゃったんですかね。こんな状況になって、どっかネジ飛んじゃったんでしょうか。でなきゃ、こんなおっそろしーこと考えつかないでしょう」

 偽りの緑を焼き払い、感染者を解き放ち、そうして国一つを破壊する爆弾を解除する。そして彼にはその自信があり、失敗のヴィジョンは見えていないのだという。まるで映画の中のヒーローだ。頭の中を覗き見たところで、常人には理解することもできないデータの羅列がこちらの首を絞めてくるに違いない。
 躊躇いもなく他者を使える人間はそういないと、スズヤは経験から知っていた。それが、相手を危険の渦中に送り込むことになるのならなおさらだ。己の判断を誤れば相手の命を奪うはめになるのだから。だからこそ、軍内において指揮官になるためには確かな素質が必要とされている。非情すぎても務まらず、優しすぎても務まらない。なにを残しなにを捨てるか、その咄嗟の判断が必要とされるのだ。
 その点、ハインケルは迷わなかった。怯えながらも、スズヤ達を利用することに躊躇など見せやしなかった。あの様子を見て、彼を臆病羊だなどと嘲笑する人間は誰もいないだろう。邪魔な奴は排除しろと言い切った声の強さを思い出し、思わず身震いする。そんなスズヤを、ソウヤは冷ややかに一蹴した。


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