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 ひゅっと風を切る音が聞こえたと思った次の瞬間、凄まじい痛みが頬を襲った。眼鏡が弾け飛ぶ。衝撃に身体を支えきれずに椅子から転がり落ち、床にしたたかに肩を打ち付けた。起き上がろうとしたムサシの肩に杖先が押しつけられ、抉るような痛みが追従した。
 どうやら、この悪趣味極まりない杖で殴られたらしい。頬の内側を切ったのか、鉄臭い血の味が口の中いっぱいに広がっていて不快だった。杖先を捻じ込まれる肩にも、生半ではない痛みが絶えず走っている。
 痛みとともに見下ろしてくる冷ややかな視線は、ムサシにとって懐かしいものだった。かつて何度もこの視線を浴びせられてきた。まるで虫けらかなにかを見るような目は、ムサシが対等であることを決して認めない。同じ場所に立つことすら許さない。彼らの納得できる結果を出さなければ、使い物にならないクズとしてそれにふさわしい扱いを受ける。
 ずきずきとした痛みは、ムサシの心に怒りすら生まない。彼らのような存在に、感情を傾けること自体が無駄だともう既に知っているからだ。
 どうしようかと薄く笑ったムサシは、ヤマトが口を開こうとしたのを視界の隅に見た。貴方が気にかける必要などないのにと思い、同時に見苦しいものを咎めるためかと一人納得する。
 しかし、実際は彼がなにかを言うよりも先に、会議室の扉が勢いよく開かれた。その騒ぎといえば、“あのとき”と酷似している。
 ――もっとも、あのとき乗り込んできたのは、彼女一人だったのだけれど。

「おやおや、こんばんは。お元気でしたか? マミヤくん」

 黒服の男を三人従えて会議室に乗り込んできたマミヤは、意志の強そうな瞳をきらめかせていた。本人は黒だと言い張る深緑の髪が、扉の閉まる風圧に煽られてふわりと靡く。
 どこまでも美しい深い緑。夜に紛れる孔雀の色だ。
 ――きれいですねぇ。
 声に出した覚えはないが、どうやら零れていたらしい。マミヤの眼差しが一度ムサシを捉え、彼女はなにか物言いたげに眉根を寄せた。

「なぜ、お前がここにっ」
「貴様ァッ! 自分がなにをしたか分かっているのか!? 王族が私的に軍を動かしたんだ、これは大きな問題だぞ!」
「こんな勝手な真似が許されると思っているのか!」

 可哀想に、冷静な判断ができなくなったのだろうか。議員達は興奮に任せてマミヤに詰め寄っていく。ムサシはその場に膝を立てて子どものように三角座りをし、頬杖をついてその様子を見守った。案の定、屈強な黒服の男達が間に入って議員達を阻む。
 日頃上等な椅子に座り慣れている彼らには、それがひどくお気に召さなかったらしい。妨害されることなどあってはならないと言わんばかりだ。血管が切れそうなほど顔を赤くさせた議員の一人が、近くに置いてあった紙コップを掴んで勢いのままにマミヤにコーヒーをぶちまけた。冷め切った液体は黒服の男によってほとんどが遮られたが、僅かにマミヤの顔にもかかったらしい。
 ぽたり。黒い雫が細い顎先から伝い落ちる。
 彫刻のように整った頤から落ちた雫は、彼女の軍服の胸元に染み込んだ。そこでふと気づく。常ならそこに存在を示すはずの階級章が見当たらない。
 ――こんなときだというのに、彼女はまだ軍服に袖を通したのか。
 透けて見える決意と覚悟に、ムサシは口元を隠しながら微笑した。

「……勝手? 笑わせないで。どっちが勝手よ」

 静かな、絞り出すような声だった。

「ふざけるな、小娘! たかがっ、たかが士長ごときが、組織に楯突きよって! どう責任を取るつもりだ!!」
「士長の首一つで取れる責任なら、いつでも持っていけばいい。そんなもの、喜んで差し出すわ。けれど、それでも足りないのなら、――テールベルト緑姫として策を講じる」

 なんとまぁ。噴き出しそうになるのをなんとかこらえ、ムサシは床に座ったままマミヤを見上げた。
 少し力を入れれば折れてしまいそうな華奢な身体で、彼女はこの重圧にどう抗うつもりなのだろう。ともすれば震えそうなその声で、なにを言うつもりなのだろう。
 マミヤの言い放った言葉に、会議室内がざわつき始めた。「緑姫」――彼女は確かにそう言った。テールベルト緑姫として、策を講じると。
 それを名乗れるのは、テールベルトには一人しか存在しえない。王族の中でも最も濃い血を持つ直系の――それも長女にのみに与えられる称号だ。
 彼女はそれを、躊躇いなく名乗った。

「なにを、馬鹿な……。現緑王に娘はいないはずだ!」
「くだらん狂言を抜かすな!!」
「書類上は確かにそうね。でも、この血がすべてを証明する」

 ――ああ、面白い。
 低く放たれた声は強いが、それは揺れるのを必死で誤魔化しているのだろう。彼女はいつまでもつだろうか。座り込んだまま静観していると、突然肘を掴まれて立たされた。驚いて振り返れば、表情一つ変えないヤマトがムサシの腕を掴んでいる。純白の軍服の胸に、背がぴたりと合わさる。厚い軍服の生地越しでは、彼の体温も、その心拍の速さも、少しも感じ取ることはできなかった。


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