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「対象プレートの調査研究を行っていただきます。詳細は追ってご連絡いたしますので、早急に空渡準備に取り掛かっていただきたい」
「ま、待って! そんな、空渡だなんてできるわけが!」
「これは命令です、博士。生憎と、あなたに拒否権はありません」

 ――思い出した。
 面倒くさそうに、けれどどこか気の毒そうに溜息を吐くこの男は、特殊飛行部の艦長を務めるヒュウガだ。先日の“騒ぎ”を起こした隊員達が所属している隊を率いる男が、わざわざハインケルを呼びに来たというのか。
 嫌な予感がした。
 伝令役に一佐が派遣されるなど、そうあることではない。それもあの騒動の直後とは、タイミングが合いすぎている。思わず一歩後ずさったハインケルに、彼は鋭い眼差しを向けて首を振った。

「失礼いたします」
「えっ、ちょっ、やめ――!」

 逞しい腕が伸びてくる。一瞬で抱え上げられたハインケルの足が、虚しく宙を蹴った。慌てて相棒がついてくる。肩に担ぎ上げられて腹が苦しい。目の前でぱたんと閉まった研究室の扉に、絶望が視界を塗り替えた。

 世界は広い。
 広いけれど、狭い。
 狭いままで十分だった。狭い箱の中から、ハインケルはいつだって好きな世界だけを覗いてきた。これからもずっとそうだと思っていたのに、箱の中に押し込めた連中と同じ手が、今こうしてハインケルを箱から引きずり出していく。
 どうしてそっとしておいてはくれないのかと、揺れる視界に問いかけた。真実“緑”を望むのなら、ずっと箱の中に入れておいてほしかった。飼われたままでよかったのに。
 外の世界は怖い。進む廊下に、奇異の視線が溢れている。 
 変化を望まぬ哀れな子羊が、白の前に突き出された。


* * *



 穂香の通う県立高校は、県内ではわりと有名な進学校だ。駅から近く、学校の目の前には近隣住民が集まるショッピングモールがある。さほど大きくはないが、ちょっとした買い物をするには十分なので、放課後には多くの生徒が立ち寄っている。
 深いカーキ色のブレザーに、灰色のスカート。友人達はかわいくないと口を揃えて文句を言うが、穂香にとって制服のデザインは特に気にならなかった。それに、夏はどうせ白いカッターシャツにスカートだ。それはどこの学校も変わらないだろう。
 二時間目の数学を終えると、次は移動教室だった。教室で書道の準備をしていると、あまり喋ったことのないクラスメイトが声をかけてきた。どうやら担任が探していたらしい。
 穂香自身には呼び出される心当たりなどこれっぽっちもない。自分はなにかしたのだろうかと不安になりつつも、穂香はクラスメイトに礼を言って職員室に向かった。
 恐る恐る職員室のドアを開けると、今まさにドアに手をかけようとしていた担任とぶつかりそうになって、穂香は小さく悲鳴を上げた。

「ああっ、赤坂さん! 南川さんと会ったのね、よかった!」

 しきりによかったを繰り返し、担任の小牧文子(こまきあやこ)がぎこちなく穂香を生徒指導室に案内した。至って真面目な優等生である穂香にとって、この部屋は無縁のものだと思っていた。
 どくどくと心臓が大きく騒ぎだし、安っぽい革張りのソファを握る手に力が籠もる。

「あの、あのね、落ち着いて聞いて。ああ、どこから話せばいいのかしら、えっと」

 まだ若い英語教師は、自分の手を開いたり閉じたりさせながら穂香を見つめた。「落ち着いて」としきりに繰り返しているが、どう見ても落ち着いた方がいいのは彼女の方だ。蒼白になった彼女の顔色が、余計に穂香を不安にさせる。
 シンプルな茶色のローテーブルを挟んで向かい合った二人の間に、奇妙な沈黙が落ちる。埃の被った造花が、虚しく無機質な部屋を飾っていた。

「あ、あのね、赤坂さんのお父さんが、その……、事故に遭われたそうなの」

 がつんと、なにかとてつもなく堅いもので頭を殴打されたような衝撃が走った。

「じ、事故……? いつ、」
「で、でも大丈夫なのよ、命に別状はないの! 大きな怪我もしてらっしゃらないし、早退するほどでもないってご家族の方から連絡もあったのよ」

 いつ。どこで。どんな風に。
 聞きたいのに舌が動かない。一番最初に訊ねたいことは、答えが返ってくることの恐怖から聞き出せなかった。「無事ですか」そう訊いて、もし「無事じゃない」と言われたら。恐怖に目の前が眩む。冷え切った心臓に、絶え間なく太い杭が打ち込まれていくようだった。
 ぎゅっと握った拳が震えているのを自覚した。穂香が自分から聞かずとも父の無事は告げられたが、それでも安心できるものではない。
 落ち着けと言った小牧も取り乱していて、ろくに口も利けない穂香に構わず一人で喋り始めていた。小牧の顔が一気に青褪め、ぶわっと音がしそうな勢いで両目に涙が浮かぶ。驚く穂香の前で、彼女は耐えきれなくなって顔を覆った。

「赤坂さんの、お父さんは、か、かすり傷だったらしいんだけど、それがね、事故っていうのは、ま、巻き込まれたらしいのよ」

 自ら起こしたものではない限り、事故とは大概の場合巻き込まれるものだ。――交通事故。脳裏に浮かんだ激しい音と衝撃に、指の先までが氷のように冷たくなった。
 ふるり。か細い首が横に振られる。ダークブラウンの髪が跳ねて、小牧は大きくしゃくりあげた。

「じ、……自殺、なの」
「じさ、つ……?」



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