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 自分のペットにデータを隠し持つとは、ハインケルもなかなか性質が悪い。そんなところに血のつながりを感じ、吐き気を覚えるほどに苛立った。あれと血が通っているなど、考えただけでも腹立たしい。
 濡れた羽毛が張りついているのを見て、不意に幼い頃の記憶がよみがえった。ハインケルの目の前で綺麗な小鳥の翼を折ってやったあのとき、兄は血の気を失くして立ち竦んでいた。
 可哀想な臆病ハインケル。あの日から、あの男は世界から逃げ出したのだ。

 ――ねえ、兄さん。あのとき、一体どんな気持ちだった? ねえ、今はどんな気持ち?

 汚れた白衣を着替えて自室に戻ったドルニエは、綺麗に血を拭ったチップを端末の変換ポートに差し込んだ。即座にデータが読み取られていく。当然パスワードを問う窓が出てきたが、そんなものはものの五分で解除できた。
 表示された数字の羅列に、自然と口角が持ち上がる。複雑な化学式が踊り、暗号めいた文章を解読すれば、あの男が生み出した「奇跡の薬」の概要が見えてくる。
 複数あるフォルダをすべてコピーし、バックアップを取った。当然、新たに暗号化して保存する。
 詳細の確認は“向こう”に帰ってからじっくり行えばいい。ざっと目を通しただけでも、このデータに十分すぎるほどの価値があることは見て取れた。
 頭の後ろで纏めていた髪をほどけば、まばゆい金糸が背に波打つ。癖の強い金髪は母親譲りだ。ハインケルの髪も、ドルニエと同じように癖が強い。正反対だと言われることの多かった自分達の中で、この髪と瞳の色だけが唯一の共通点のように思える。
 そんな不愉快な事実を意識の端から追い払い、ドルニエは白衣のポケットに入れていた携帯端末を取り出した。着信履歴から相手を選んでコールする。ものの数コールで相手は応答したが、その声は不機嫌そのものだ。どうやら間が悪かったらしいが、そんなものに気を遣う義理はない。

「あ、もしもーし。ドルニエでーす。例のデータ、手に入りましたよーっと」
『ご苦労。首尾は』
「あたしが失敗するとでも思いますー? 上々に決まってるじゃないですか。いつでも大丈夫ですよん、議長サマ」
『口を慎め、ドルニエ博士。――それでは、計画の実行を許可する』
「りょーかいしました。あ、ところであの約束、ちゃんと守ってくださいますよね?」

 端末の向こうで枯れた声が笑う。豪奢な椅子に腰かける老人の声だ。

『緑花院付きの研究員として、その研究所の頂点に立つ。――予算も配下も、すべてはお前の望むままに』
「くれぐれも、空軍の研究所に口出しされない立場の確立をお願いしまぁす。……ま、それじゃあ任務遂行してきますね」

 腕時計を確認し、時刻を記録する。命令が下れば、あとは実行するだけだ。
 用件を確認するなり通話を終わらせようとしていたドルニエを引き止めたのは、意外にもくだらない戯言だった。

「……はいぃ?」

 一瞬聞き流しかけたその言葉に、僅かに低くなった声音が問いかける。
 あの老人は、今なんと言ったのだろう。

『だから、ハインケル博士はよいのかと聞いている』
「は? どういう意味か分かりかねますがー?」
『計画を実行するということは、あれを切るということだ。仮にもお前の実兄だろう?』

 偉そうにふんぞり返っているだけの老人に「お前」呼ばわりされるのも不快だが、なによりも兄妹としての情を確認されたことが業腹ものだった。あの男と血のつながりがあるというだけでも腸が煮えくり返りそうなのに、そこに情などあるはずもない。
 幼い頃から天才だなんだともてはやされ、それだけの実力があるにもかかわらず、日陰で縮こまってばかりの臆病者。ドルニエと同じ尊い血筋の人間でありながら、彼の性格はまさに異端だった。
 彼はどれほど褒めそやされても、震えながら「そんなことはない」と首を振る。
 ――あれだけのものを、生み出しておきながら。
 苛立ちに任せてキーボードを叩きながら、別のデータを呼び出した。モニターの右端に、タイマーの表示が現れる。

「はっ! あんな男、どうなったって知ったこっちゃないですよ。それより、もういいですよね?」
『ああ、好きにしろ』
「はいはーい。それじゃ、緑のゆりかご計画実行いたしまーっす」

 パスワードを入力し、指示通りに指紋を認証させれば、静かにタイマーが動き始めた。
 刻々と数字が減っていく。これがゼロになったとき、この世界はどんな顔を見せるのだろう。
 ドルニエは笑う。楽しそうに。初めてハインケルの表情を恐怖に染め上げたあの日と、同じ顔で。
 そして彼女は、歌うように言った。

 ――さあ、終焉を。



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