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欠片が墜ちるその前に *18
「やれるだけはやりましたけど、あとは知りません」
あっさりとそう報告した部下の顔を思い出し、イセは降りそそぐ水の中で溜息を吐いた。シャワーの水圧を高めれば、肌の上を容赦なく水が叩く。五十を過ぎても十分硬く引き締まった肉体は、細身ながらも逞しいという表現がよく似合う。張りつめた肌の上を雫が線を描いて滑り落ち、排水溝へと流れていく。
シャンプーボトルの青いパッケージが視界に映り、そんな安っぽい青よりももっと綺麗な色が脳裏をよぎる。
思い出すのは、空の青だ。飛行樹(ひこうじゅ)で雲を貫いた先にある、深い青。地上から見上げた空の色とはまた違うその色は、翼がなければ見られない色だった。
白髪の混ざり始めた髪を掻き上げ、軽く頭を振ってからシャワーブースを出た。ヴェルデ基地では、一尉以上の軍人にはシャワー付きの個室が宛がわれるため、時間を気にせず入浴することができる。艦長クラスといえども病院の個室程度の広さだが、なに一つ不自由はなかった。
無造作に髪を拭っていると唐突に鳴り響いた電子音に呼ばれ、イセはぎくりとして足を止めた。これほど過剰に反応してしまったのは、ここ最近何度となくかかってくる上からのコールに、知らず知らずのうちに身構えるようになっていたからだ。
勢いよく腕を引かれたように振り返り、サイドテーブルの上に放置していた個人用端末を手に取った。画面に表示されていたのは、イセと同じく空渡艦の艦長を務める男の名だった。それを見るなりどこかほっとした自分に気がついて、イセはただでさえきつく見られがちな目元を鋭く細めた。
ハンズフリー状態のままコールを受ければ、途端にスピーカーから大音量が津波のごとく流れてくる。耳に押し当てなかった自分の判断の正しさと、そうなることが分かってしまえる付き合いの長さに、なんとも言えない溜息が漏れた。
『おーいっ! イセー? あれ、聞こえてねぇの? イーセー?』
四十を過ぎ、それでも未だに独身を謳歌するこの男は、相変わらず能天気な声でイセを呼ぶ。
一艦長とは思えぬ男は、威厳よりもまず粗暴さが先に出ることで有名だ。左手には無茶を、右手には無謀を鷲掴み、コマのようにぐるぐると回りながらその場を引っ掻き回すだけ引っ掻き回すのがお得意だ。あとに残った面倒事は、そしらぬ顔で部下に押しつけて逃げることでも名が知れている。後片付けをきっちりこなす、有能かつ哀れな部下がいるからこそ、彼が好き勝手できるのだという話もだ。
特殊飛行部カガ隊を率いる艦長のカガは、二佐の威厳など微塵も感じさせない緊張感のない声で「あっれ、繋がってねぇのかな」などと独り言を呟いていた。
「……どうした」
『おっ、なんだ、いんじゃねぇか。よーっす、元気にしてたかー?』
「ああ」
『そりゃよかった! ……でもよぉ、そこはフツー、オッチャンの具合も聞かねぇ?』
「時間の無駄だ。用件を話せ」
カガの具合など訊くまでもない。殺しても死なないような男だが、万が一にも弱っていれば彼の溺愛する優秀な部下が先にコールしてくるだろう。本人が出てくる以上、息災に違いない。
お世辞にも寝心地のいいとは言えないベッドに腰を下ろし、イセは用意していた着替えに袖を通しながら一息ついた。ベッドサイドに置いた端末は、そのままやかましくカガの声を届けてくれる。
昔から用もないのにコールしてくるような男ではあったが、少なくとも全隊出動などという異常事態に馬鹿話をしてくるような真似はすまい。
――用件を。硬い声音でそう促せば、カガは若干声を潜めた。
『――イセ隊は帰還してんだってな』
「ああ。少し前に戻っている。後続部隊との引き継ぎも済んだ。お前達の方はまだかかりそうか」
『おー、こっちはヤバいぞー。高度感染者が山ほどいっからなー。ヤシマ隊も応援に来たが、ま、追いつかねぇわな。感染速度がいくらなんでも早すぎるわ。テールベルト管轄プレートだからっつって意地張ってっと、そのうちビリジアンやカクタスに泣きつくはめになりそうだなぁ』
「……それは、イセ隊に再出動を要請しているのか?」
途端にカガが噴き出し、音が割れた。げらげらとひとしきり笑ったあと、「まさか」と、笑いすぎて苦しそうにひっくり返った声で彼は言う。
分かっていたからこそ、問いかけるのに間が開いた。それでも訊ねずにはいられないことも、カガには分かっていたのだろう。どれほど阿呆に見えたところで、本当に中身のない人間が艦長など務まるはずもない。
階級も年齢も下の男だが、それでも対等に話し合えるのはそういうことだ。