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ナガトのこれほど余裕のない声を聞くのは初めてだ。あの優男は、今頃一体どんな顔をしているのだろう。
緊張から手が震えそうになるのを必死で押さえ込み、電話しつつ先に進む。
近くの高校で立てこもり事件が発生しているからか、それとも平日だからか、登山者とは一度も擦れ違わなかった。踏みしめた落ち葉がかさりと鳴く。
「大丈夫やって。今んとこなんもないから。だから平気。なんとかなるって」
笑ってみせれば、ナガトは黙り込んだままなにも言わなかった。
風が吹く。ほんの一瞬、音をすべて攫うように掻き消し、そして――。
「ウ、ガァああア、ァアアッ!」
「――きゃあああっ!」
携帯を放り投げ、奏は右手に握り締めていた薬銃の引き金を立て続けに二回引いた。乾いた音が二度響き、緩やかな斜面に絵筆を持った老人が口の端から泡を吹いて倒れ込む。こめかみに浮いた葉脈のような痣が、すうっと引いていった。
「あっ、ああ……、これ、どうしよ、ッ……」
引き金に絡まった指が離れない。手が攣りそうだ。仰向けに倒れて動かなくなった老人を数メートル先に見つつ、奏は犬のように荒くなった己の呼吸の音を聞いた。それ以外に内側から聞こえてくる騒音が鼓動だということに気づいたのは、膝が砕けてその場に座り込んだときだった。
力なく地面についた指先が、硬いものに触れた。小さな機械から自分の名前が漏れ聞こえているのにやっと気づき、力の入らなくなった手でなんとか拾い上げる。
耳に当てた瞬間、鼻の奥がツンと痛んだ。声が聞こえる。必死で奏を呼ぶ、その声が。
『奏っ! 奏、どうした!? クソッ、応えろよ、奏!』
「あ、だ、だいじょ、ぶ。撃った、撃ったから」
ひっくり返った声で応えてしまったというのに、ナガトはこれ以上はないくらいに安堵の息を吐いたのが電話越しに分かった。「よかった」という聞かせるつもりのないであろう呟きは、マイクにしっかりと拾われている。
その言葉が聞こえてきたことが嬉しかった。そして同時に、恐ろしかった。
呼吸と気持ちの両方が少し落ち着いてきた頃、奏は今しがた撃ったばかりの老人を見た。
格好からして、絵を描きにやってきていたのだろうことは伺える。こういう場合、地域の老人会やその他団体のイベントで参加していることが多い。だとすれば、他にも感染者がいるかもしれない。
冷静にそこまで考えると、収まっていた震えが再び全身を襲った。
『分かったろ、ここは危険だ。頼むから早く避難して。お願いだから』
「……嫌や」
『いい加減にしろよお前、死にたいのか!?』
「んなわけないやろ!? ふざけんなっ! でもあんたらがっ……、あんたらが危ない目に遭ってんのに、それが分かってんのに、一人でじっとしてられるわけないやん!」
『軍人でもないお前になにができるんだよ! いいからさっさと、』
「あんたはあたしが助けんの! 四の五言わんとそこで待っとけッ!!」
叩きつけるように通話を切って、奏は携帯をポケットに仕舞い込んだ。薬銃についた土を払い、しっかりと構えたまま立ち上がる。足は頼りなく震えていたが、それでもなんとか動いた。
「死にたいわけあるか、あほ」
濡れた頬を手の甲で拭い、しっかりと前を見据えて一歩一歩確かに進んでいく。
――止まるな。足を止めるな、座り込むな。目を閉じるな、耳を塞ぐな。
進め。今はただ、前に。
「だいじょうぶ、絶対、だいじょーぶ」
感染者が走ってきた咆哮を目指せば、ナガト達のいる艦に辿り着けるだろうという確信があった。
本来は感染者よりも白の植物そのものが危険だと、ナガトがそう言ったからだ。人間をあんな化け物に変えてしまう白の植物が、きっとこの先にある。
だから、あの老人の足跡を辿って歩けばいい。簡単で、単純で、上手く頭が回らない今の奏にとって、それはとても助かった。
反射神経の良さには自信があった。薬銃の扱いもコツを掴んできているし、きっと大丈夫だ。近寄られる前に撃って動きを封じ、彼らを助ける。それが奏の使命だ。
ナガトは分かっていない。どうせどこへ行っても、奏は狙われる。この身体は感染者にとって、そして白の植物にとって、格好の餌なのだ。だとすればたった一人でミーティアの元へと走るよりも、“プロ”の傍にいる方が安全だ。そう判断したから、自分はこんなにも必死になっている。