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特にそうしてやろうという意図もなく覗いたフロントガラスから、後部座席までが見通せた。そこに座る初老の男性の顔に、マミヤは凍りつき、言葉を失った。
目の前を車が走り抜ける。弾かれたように振り返ってみたが、スモークの貼られた窓からはなにも見えない。
「どーゆーこと……?」
盾に絡んだ植物の蔦。
翼を生やした一角馬の紋章。
――ビリジアンの人間が、なぜ裏門からやってくる。
見えたのはほんの一瞬だが、あの顔には見覚えがあった。彼はビリジアン政府の中でも、政界に大きな影響力を持つ大臣の一人だ。秘書とボディガードを乗せた高級車に乗って現れた男が、末端の人間であるはずがない。
あれほどの重役の来訪にもかかわらず、自分達はなにも知らされていなかった。いつもなら、粗相のないようにと厳しく言い渡されるのに。
喉の奥に硬いパンがそのまま詰まったような、息苦しい感覚を覚えた。呼吸の仕方が一瞬分からなくなる。ごちゃごちゃと入り乱れた感情が選んだ表情は引き攣った笑みで、乾いた笑声が虚しく響く。
英雄の国などと呼ばれる輝かしい国の重役が、目の前を通り過ぎて行った。そんなことくらいで足が竦むような繊細な心を持った覚えはない。ならば、この震えはなんだ。思わず自問し、空を映したように心が曇る。一度浮かんだ疑念は晴れず、ただ、不安だけが獣のように駆けてきた。
気のせいかもしれない。勘違いかもしれない。――それならばどれほどいいだろう。
気がつけば駆け出していた。硬いコンクリートを蹴っていた足裏が、基地内のタイルを蹴り、やがて足音を掻き消す絨毯を踏みしめる。息が上がる。戦闘員と同様の訓練は受けたとはいえ、空渡観察官は非戦闘員だ。体力の差など動けば明らかになる。
緑の黒髪――そう主張しているけれど、これは明らかに黒ではなく“深緑”だ――が、容赦なく背を叩く。風に舞い、靡き、広がり、もつれる。解放を望む緑が、マミヤを急かす。
吐き出した息が震えていた。一心に目指したのは、ヴェルデ基地の中でも最も大きな会議室だ。大きな扉を守るように隊員が立っている。
「オイ、一体なんの用だ」
「ここは現在立ち入り禁止で――」
「どきなさい!」
警備にあたっていた隊員を押しのけ、その静止すら振り払って、マミヤは重い扉を乱暴に押し開いた。通常であれば彼らが非戦闘員の女一人を取り逃すことなどありえないだろうが、今のマミヤはどうやらよほどの勢いを持っていたらしい。
滑り込んだ豪奢な会議室の空気が、一瞬にして氷点下まで下がったような気がした。瞬時に突き刺さる視線を一身に浴び、ただでさえ落ち着かない呼吸がより一層激しく乱れる。
――怯むな。竦みそうになる足に力を入れ、マミヤはさらに一歩踏み込んだ。
「なんだね、君は。出て行きなさい」
禿げ上がった頭の軍上層部の人間が、マミヤを見て静かに、けれども厳しく言い放つ。
その言葉すら無視をし、ずらりと並んだ人々の顔を順番に見ていった。見知った顔がいくつも並んでいるのを見て、思わず嘲笑が零れそうになる。軍上層部だけではなく、緑花院の議員も顔を連ねていた。それだけに飽き足らず、先ほど見たビリジアン政府高官に至るまで、見事に重役達が揃い踏みだ。
会議室の最も上座に鎮座しているその人の姿を見たとき、胸が震えた。僅かな揺らぎも許さない水面のように澄んだ瞳が、一言も言葉を発することなくマミヤを見据えている。どうやら彼は、王都に構える国家軍政省から、わざわざヴェルデ基地まで足を運んで来たらしい。
一切の乱れなく整えられた黒髪と、同色の怜悧な瞳が目を引き付けて放さない。左頬に残る火傷の痕すらどこか扇情的なその人は、純白の軍服に鮮やかな翠のロングコートを纏っていた。
彼はなにも言わない。眉を顰めることも、目を眇めることもしない。ただ静かに見つめてくる。それだけなのに、時が止まったような錯覚と不安を覚えた。
その視線に、なぜだか泣きたくなった。彼のことは知っている。テールベルト空軍を統べる人だということも、――それ以外のことも。彼だって、自分と同じ籠の鳥だったはずなのに。
「おやおや、マミヤ士長。なんのご用ですか? 会議中ですよ」
中性的な甘い声が、囚われていた意識を強制的に引き上げる。弾かれたようにして視線を滑らせれば、ヴェルデ基地司令であるムサシがにこにこと笑みを浮かべていた。忌むべき白を身に宿したその人は、悪戯っぽく笑って隣を見上げる。ムサシが視線を送った、ぞっとするほどの色香を持ったその男こそ、今し方マミヤが目を奪われていた人物――テールベルト空軍の頂点に君臨する総司令官のヤマトだった。