7 [ 132/225 ]
「ふぎゃっ、アははハハ!」
男は制服を着た感染者の髪を掴み、乱暴に押しのける。壁に打ち付けられた男子生徒の額が割れ、血が流れた。冷え切ったナガトの眼差しが、それを見た瞬間に熱を宿す。
一際大きく響いた一発の銃声に、アカギの頭がすっと冷えていく。弾け飛ぶ赤。割れたザクロの実のように、なにかが飛び散る。怪鳥のような奇声を発して後ろに倒れ込んだ男に、ナガトは続けざまに二発の銃弾を撃ち込んだ。
階段が赤く染まる。泉のように広がる赤に、それでも他の感染者の足は止まらない。血だまりに足を取られて転ぶ者も多くいた。
「――行くぞ!」
腹の底から叫び、アカギは艦へと身を翻した。すぐにナガトもついてくる。去り際に投げ込んだ閃光弾が爆発する間に、二人は艦内へと滑り込んだ。
その中に、膝を抱えて泣きじゃくる穂香がいた。モニターは屋上の出入り口を映している。目を押さえてもがく感染者達の姿が綺麗に映し出されていた。
「退避する! 二人とも、なにかに掴まって!」
「穂香、来い!」
ナガトがパネルを叩き、艦が大きく揺れた。穂香の腕を掴んで手摺りに掴まり、投げ出されないようにしっかりと小さな身体を抱き込む。怯えた身体が逃げるように跳ねたが、それすら許すまいと引き寄せた。この震えは、どの恐怖によるものだろう。
見上げてくる黒い瞳に映る自分達の姿は、一体どう見えているのだろう。
ぐんと高く上昇した艦体が、騒然とする高校から離れていく。
ひとまず目先の危機は回避した。安全な場所に着艦し、様子を見なければならない。揺れの安定した艦内でそっと穂香を解放すれば、彼女はその場に崩れ落ちて静かに肩を震わせ始めた。
かける言葉など、一言も思いつかなかった。ナガトもアカギも、舌を抜かれたように声を発することができなかった。荒い呼吸と嗚咽が艦内を満たす。
――そら見ろ。
自分達は、正義の味方なんぞには決してなれない。
* * *
しんと静まり返った会議室の中で、ハインケルは緊張の渦に呑まれていた。
あれほど危ぶまれていた集団感染が、ついに起きてしまった。それも市街地の、よりにもよって高等学校という場所でだ。その処置が決定し、ありとあらゆる立場の人間が一斉に動き始めている。そんな中、自分は会議室の椅子の上で根を生やしたように動けないでいた。
くるぅ。膝の上で鳩が鳴く。
「お加減はいかがですか、ハインケル博士」
差し出されたコーヒーはミルクと砂糖がたっぷり入れられていて、それだけ気を遣われたのだと気づく。隣に座ったミーティアは、ハインケルではなく、スツーカを見て目元を和ませた。
会議室にはいつの間にか誰もいなくなり、ハインケルとミーティアの二人だけになっていた。苦いブラックコーヒーの香りが漂ってくる。それをこくりと一口飲み下し、彼女は肉厚の唇に笑みを浮かべた。
「――正式に、ビリジアンの研究員となってくださいますか?」
問いかけはひどく甘美な響きを持っていた。こんなときだというのに、ミーティアからは落ち着いた大人の余裕が感じられる。今、現場は相当混乱を極めていることだろう。それなのに、少し離れただけで机に向き合って、のんびりとコーヒーを飲むことができるのだ。
ハインケルは軽く息を吐き、漆黒の水面を見つめた。
このままテールベルトに残るか、それともビリジアンで望まれるままに機械のように動くか。自分がしたいことは研究だ。それだけだ。ならば、ビリジアンに移ったとしてもなんの問題もない。むしろ、環境を整えてくれる分、そちらの方が好条件のようにも思えた。
テールベルトに特別な執着があるわけではない。ただ、当たり前のようにここで研究を続けてきて、なんの疑問も違和感も抱いてこなかっただけだ。家族の背中を見て育ったハインケルには、ここで研究して生きていくことが当然だと思い込んでいた。
それ以外の選択肢を目の前に提示され、上手く頭が働かない。おずおずと見上げた先のミーティアと目が合って、慌てて視線を逸らした。
「ほ、本当に、守ってくれる……?」
「ええ、もちろん。お約束いたします。女王陛下の御名にかけて。――ですからハインケル博士。お気づきになられたことを、教えていただけませんか?」
ああ、怖い。胸を締め付ける恐怖と不安に駆られ、ハインケルはぎゅっとスツーカを抱き締めた。