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決意の欠片に雫落つ *15
――なにがなんでも守ってやる。
聞こえたのは、あの人の声でした。
あちこちで聞こえる感染者の咆哮に、アカギの背に冷たいものが滑り落ちた。何度薬銃の引き金を引いたか、何度弾倉を入れ替えたか、最早考えている暇はない。すでに手元の端末は赤と白の光で埋め尽くされており、わざわざそれを見て感染者を探すまでもない状況に追い込まれている。なにしろそこかしこに感染者の気配が満ちているのだ。
むしろ、探されているのは自分達の方だった。白の植物に侵された生物は、感染していない綺麗な身体を持つ、種を運ぶにふさわしい健康体を常に求めている。ウイルスか、それとも別のなにかか。白の植物は種の繁栄のため、新たな獲物を求めてやまない。
たとえ相手が戦闘経験などない子どもであろうと、感染している以上油断すれば襲われる。慎重に、けれど足早に校内を進んでいかなければならない。下手に音を立てれば気づかれ、たちまち取り囲まれてしまうだろう。そうなってしまえば、たった二人で切り抜けるのは難しい。
テールベルトにある高校とよく似た雰囲気を持つ建物の中を、静かに進んでいく。壁に貼られた生徒の絵画が、この状況に不釣り合いだった。
感染者が群を為す教室を避け、息を殺しながら階段を下り、時には棚や窓を利用して天井付近を這うように移動した。
穂香がいる場所まであともう少し。そんなときだった。
――絹を裂くような悲鳴が、アカギとナガトの鼓膜を貫いたのは。
「穂香!?」
「アカギっ、行け!」
東校舎の一階。その片隅にある女子更衣室めがけて、甲高い悲鳴を聞きつけた感染者が押し寄せてくる。ざっと見ただけでも十人以上の影が蠢き、誰もが白目を血走らせて大きく口を開けていた。その喉から放たれる声は獣のようで、軽度感染ながらも理性が奪われていることを知る。
背後から飛びかかってくる感染者を走りざまに薬弾を撃ち込み蹴散らして、アカギは更衣室へと飛び込んだ。背中のぎりぎりに感染者の指先が触れ、それを阻んだナガトの放つ銃声がアカギの背を押す。
この一歩がもどかしい。
どうしてもっと大きく、もっと速く走れない。どうして、この背には翼が生えていない。
そんな埒もないことを考えてしまうほど、今の自分には余裕がなかった。
見えた人影に反射的に引き金を引きかけるも、それが穂香だと分かってブレーキがかかる。銃口を下げると同時、背後で扉の締まる音がする。
――目にした光景に、心臓が凍るかと思った。
「ほのちゃん、無事!?」
アカギの横をすり抜けたナガトが、穂香に覆い被さる“それ”を引き剥がした。
仰向けに転がった少女の姿に、ぞっとする。
固く閉じられた瞼の奥には、勝気そうな瞳があったはずだ。その顔も、健康的なきゅっと引き締まった足も、どれも見覚えがある。“それ”がナガトに引き剥がされる寸前まで、穂香に覆い被さっていた。頬に白く浮いた葉脈は、もうすでに消え始めている。よく見れば、脇腹に薬弾が撃ち込まれた形跡があった。
ナガトに抱き締められた穂香が、薬銃を握る手をだらりと垂らして震えていた。その目からは、とめどなく涙が溢れている。小さな顔は色を失くし、唇を真っ青にさせている。
――そうか。
見事だ。素人の小娘に薬銃など持たせたところで、感染者を相手に自衛などできるはずもないと思い込んでいたが、彼女は見事にそれをやってのけたのだ。あの小さな銃で身を守った。褒めて然るべきだろう。たとえ彼女が、それを望んでいなくとも。
閉めた更衣室の扉の向こうから、一時的に感染者の気配が消える。ナガトが感染者避けの効果を持つ薬剤を撒いたのだと、そのとき初めて気がついた。
全身からこわばりが消えるのを自覚して、アカギは無意識のうちに深く息を吐いていたことに気がついた。
「怖かったね、よく頑張ったね。もう大丈夫だよ、大丈夫。俺らがいるから。分かる? 大丈夫なんだよ、ほのちゃん」
「あ……」
「えらいね。ちゃんと自分のこと守れたね。ほのちゃんイイコ。よくやった」
「っ……!」
冷たい床に座り込む穂香をぎゅっと強く抱き締めてやり、ナガトの手が小さな頭を撫でる。優しく声をかけるたび、ぼろぼろと流れる涙がさらに量を増した。それでも頑なに声を押し殺すのは、恐怖からなのか、それとも罪悪感からなのか、アカギには分からない。
ただ、倒れた少女を検分するアカギを滲んだ瞳で捉えた瞬間、穂香は耐えきれないと言わんばかりに嗚咽を零した。