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「ウ、ァアアア、ガァアアアアッ!!」
「なっ、なにこれ!? きゃああああ!」
「バケモノッ!」
「に、逃げろ、逃げろぉおお!」

 血走った白目、青白い肌に浮いた葉脈のような痣。吠える口から滴る唾液。
 人ではなくなった、ヒトの姿。

「い、やぁっ」

 どうして、どうしてここに、感染者が。
 白の植物なんてなかった。なのにどうして。
 溢れだした涙が視界を滲ませる。同じ制服を着た誰かが化け物になって、知らない誰かに襲いかかっている。そんな光景、見たくなかった。もがくように扉をスライドさせ、穂香は薬銃と携帯を持って、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
 奏なら、あの生徒を助けようとしただろうか。
 助けてくれた男子生徒を置いてきた。奏なら、彼も連れて一緒に逃げただろうか。奏なら。ぐっと歯を食いしばり、穂香はかぶりを振った。
 自分は奏じゃない。自分が助かることしか考えられない。それがどんなに、酷いことだとしても。

 ――たすけて。お願い、誰か助けて。

 一歩進むのも怖い。
 廊下には、もう人の気配は感じられなかった。特別教室ばかりが集まる東校舎はもともと人口密度が低いため、ほとんどの生徒は近くの教室に逃げ込みきったらしい。
 そのあちこちで悲鳴が上がり、そのたびに穂香は耳を塞ぎながら身を竦めた。誰かが逃げ出そうとしたのか、扉が大きくガタガタと揺れ、悲鳴と共に静かになる教室もあった。
 このままこの廊下にいれば、外に出てきた感染者に見つかってしまう。巡らせた視線の先に、薄暗い下り階段があった。ここを降りれば更衣室に辿り着く。
 あそこなら、もう誰もいないかもしれない。座り込みたい衝動をこらえ、なんとか足を動かした。
 扉を開けるその瞬間が、かつてない恐怖と緊張を穂香にもたらした。
 がくがくと安定しない手で薬銃を構え、恐る恐る中に足を踏み入れる。三十人ほどが一斉に着替えることができるその部屋は、がらんとしていて人気(ひとけ)がなかった。今はそれだけでほっとする。
 穂香が先ほど使ったロッカーは幸い誰も使用していなかったらしく、開けてみると、上の棚に財布だけがぽつんと置いてけぼりを食らっていた。人一人がゆうに入れる大きさのロッカーに、ごくりと喉が鳴る。
 アカギ達が来るまで、ここにいれば。この中にいれば、助かるのではないだろうか。見たところ、感染者は知能が著しく低下しているように感じられた。ロッカーを一つ一つ開けて確かめるような真似をするとも思えないし――それはほとんど願望でしかなかったのだが――、仮に開けられたとしても、すぐさまこの薬銃で撃ってしまえばいい。その隙に逃げ出せば、助かる可能性はある。
 考えが纏まるよりも先に身体が動いていた。ロッカーの中に入って、扉を閉める。途端に暗くなる視界に不安が増す。隙間から見る更衣室の景色はどこか不気味で、がちがちと歯の根が震えた。
 早く連絡しないと。
 アカギに電話しようと握り直した携帯が、突然訴えるように震えだして飛び上がりそうになる。画面に表示された“アカギさん”の文字に、こらえきれず嗚咽が零れた。


 そのとき、みっともないくらいに泣きじゃくりながら「助けて」と縋った。
 助けるからそこにいろと怒鳴られた。男の人の怒鳴り声は怖いはずなのに、なぜか安心した。大丈夫、彼らは必ず来てくれる。
 もうこの学校内にいると言っていた。屋上から更衣室までは距離があるが、彼らの足ではあっという間だろう。
 もう少し。あと、もう少しだけ。きっと、大丈夫だから。
 懸命に自分に言い聞かせる。恐怖に心が押し潰されてしまいそうなときには、アカギの力強い声と、あの大きな手を思い出して誤魔化した。
 そうして自分を保っていたというのに、つかの間の安息は近づいてきた足音によって一瞬で乱された。跳ね上がった心臓に促され、冬だというのに汗が噴き出した。あの二人だろうか。きっとそうだ。そうに違いない。――そう思いたいのに、近づいてきた足音は随分と軽い。それも一人分だ。
 せめて感染者じゃなければ。携帯をポケットに押し戻し、両手で薬銃を握り締めた。
 更衣室の扉が開く。誰かが中に入ってきた。
 ぱたり、ぱたり。一番大きく聞こえる鼓動の向こうで、控えめな足音が聞こえた。
 隙間から見える風景に、深緑色の制服が入り込んできた。上げそうになる悲鳴を押し殺す。よく見えないが、相手はなにかを探しているようだった。穂香には背を向けた状態で、きょろきょろと頭を動かしている。
 いっそこのまま死んでしまいたい。痛みも苦しみも、恐怖すら感じずに。そうすることができれば、どれほど楽なのだろう。


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