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チャンスとばかりに懐に踏み込んで、逞しい腕に噛みついてやった。ぎゃっと驚いて声を上げた男に、容赦なく犬歯を食い込ませる。さすがに効果があったのか、男は奏をふりほどきにかかった。
意地でも離すものかと誓った奏の喉仏に、一瞬衝撃が走る。あまりの苦しさに顎の力が抜けた。そして、一気に背後から羽交い締めされる形になり、手も口も使い物にならなくなった。
「はいハーい。ストップ。……っと、調整ムずかシイな、この言語。ア、あ、あー……こんなもんかな?」
ぱちん。そんな音と共に急に電気がつけられて、急な明るさの変化に目が眩んだ。相手も同じだったらまだ逃げ道はあったものの、奏を羽交い締めにする男には、少しも力を抜く様子はない。
新たな男の侵入に、穂香は気を失いそうだった。あの男は、さっき一階で奏と遭遇した男だ。顔を隠そうともしていないことから、“始末”されるのだと思い当たる。
ぞっとして全身に鳥肌が立った。忘れかけていた恐怖が全速力で戻ってくる。
「――こちらG-r3e、濃厚接触者発見。感染、寄生の疑いあり。ナガト三尉、アカギ三尉の二名で調査にあたる。記録者はナガト三尉である。以上」
随分流暢になった日本語で、男は耳に手を当ててそんなことを言っていた。
濃厚接触者? 感染? 寄生? 調査?
一度に聞かされては混乱しか生まない言葉達に、奏と穂香はさらに身を震わせた。
形良い耳元にあるそれは、インカムかなにかだろうか。だとすれば、男はどこかに通信していたのかもしれない。困惑する姉妹を交互に見て、男は人好きのする笑みを浮かべた。
こんな状況でなければうっかり見惚れていたかもしれない、爽やかな笑顔だった。
「そういうわけだから、協力してね」
――どういうわけだ。
* * *
見渡す限りの緑が広がっている。
とてつもなく広大なとうもろこし畑を乾いた風が吹き抜け、青空に向かって伸びているような錯覚を覚える一本道が、緑に挟まれるようにして続いていた。
ぽつぽつと見える家々は小さく見えるが、実際はどれも十分な広さを持つ家だ。雄大な国土を誇る国ならではの景観に、男はゴーグルを押し上げて軽く息を吐いた。どこか懐かしさを覚える風景だ。かつて留学していたあの国も、ここと同じような雰囲気を持っていた。
――あそこには、これほど立派な緑はなかったけれど。
「よーっす、ハルナ。調子はどうだ?」
「好調です。それにしても、随分と被害が拡大していますね」
「急速な感染拡大だとよ。イセの行ってる地域もえげつないことになってるらしーわ」
艦にもたれて空を仰ぐ上官は余裕たっぷりに笑ったが、現状は決して笑えるものではなかった。
報告される感染者数は日々増えていき、休む暇もなく働く毎日だ。今この目に見えている緑が白く変わる日も、さほど遠くはないのだろう。この世界には、もうすでにおぞましい“白”の欠片が飛来している。
他の地域に派遣されている仲間達の話によると、どこも似たり寄ったりな状況らしい。秘密裏に活動するのが自分達の仕事とはいえ、こうまで被害が拡大してはそれも難しくなる。
そんな思考を一瞬で断ち切るように、携帯端末が叫び声を上げる。
唐突に鳴り響くアラートにも、もう身体がすっかり慣れてしまった。耳に突き刺さる警告音に、頭よりも先に身体が動く。たった今までゆったりと構えていた上官の瞳には怜悧な熱が宿っており、余計に気が引き締まった。
「この速さってこたぁ、相手さんはなんか乗ってんな。数は一体……いや、二体か。一人でやれるか?」
手元の端末で拾い上げた情報を読み解く上官は、口ぶりだけは疑問形を取っていた。その言葉が持つ本来の意味を汲み取れないほど付き合いは短くない。答える代わりにゴーグルを下げ、薬銃(やくじゅう)を握り締めた。
ゴーグルによって切り取られた視界の向こう、くすんだ青空に電子の線が引かれている。どこまでも続くような一本道の向こうから、挙動の不審な車がこちらに向かってやってくる。ゴーグルのサイドを弄ってズームアップすれば、フロントガラスには蜘蛛の巣状のひびが入り、バンパー部分にべっとりと血の痕をつけているのが見えた。
すでにタイヤはパンクしているのか、不快な音を立てて車は蛇行していた。どんな人間が運転しているのか、もう言わずとも分かる。
言葉は不要だ。合図はたった一言でいい。
「――行け、ハルナ」
力強いその一言で、この身体は突き動かされる。得物を追うことを許された猟犬のように大地を駆け、迫りくる鉄の塊に躊躇いなく向かっていった。
すかさず仲間達が援護に入る。すべてのタイヤを撃ち抜かれて動きを鈍らせた車のボンネットに、ハルナは勢いに任せて飛び乗った。凄まじい衝撃で外装がへこみ、大きな揺れが身体を襲うが、その程度でバランスを崩すような鍛え方はしていない。
運転席に座る男と目が合った。白目は血走り、瞳は忙しなく動き回っていてどこを見ているのか分からない。だらしなく開いた唇からは、肉厚の舌が白濁した唾液を滴らせて覗いていた。その首筋に、葉脈のような痣が浮いている。