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 甘い香りを放つパンケーキが目の前にあるのに、ちっとも食欲が湧かない。美味しそうだと笑って、嬉しそうな声を上げて、それから写真を撮らなきゃいけないのに。そうしなければ、またおかしいと思われる。みんなと一緒にしないと、そうしないと、また――……。
 ぎこちなく携帯を手にした穂香の目の前に、にゅっと銀色の影が伸びてきた。慌てて焦点を合わせると、それがフォークとナイフだと分かる。視線を辿れば、柔らかく笑う郁がそこにいた。

「はい、ほのちゃん。あったかいうちに食べよ! めっちゃ美味しそうやんなぁ〜」
「あ、う、うん。ありがとう。……ほんと、美味しそうだね」
「んん〜! やっばい、めっちゃ美味しいー! はい、ほのちゃんも! あーん!」

 一口サイズに切られたパンケーキが、フォークと一緒に差し出される。郁はにこにこと笑ってフォークを手放そうとはせず、それが意味するところを汲んで穂香は戸惑った。
 決して嫌なわけではないのだけれど、恥ずかしい。それに、穂香が口をつけることによって郁が不快な思いをするのではないだろうか。どうしよう、でも、拒否をすれば気を悪くさせてしまうかもしれない。
 どうしよう、――どうしようなんて考えていることがバレたら、郁にまで嫌われてしまうかもしれない。どうしようをやめるには、どうしよう。

「ほのちゃんって、同じフォークから食べるの気にする人やったっけ?」
「えっ、う、ううん、ちがうの、そういうのじゃなくて、そのっ」
「じゃあ、はい。遠慮せんで。はい、あーん」

 有無を言わさないとばかりにフォークが突き出され、穂香は恐る恐る口を開けて郁の差し出すパンケーキを食べた。口の中に入れた途端、優しい甘さとオレンジの爽やかな香りが広がっていく。生クリームも甘すぎず、生地はふわふわと軽い食感で食べやすい。一言で纏めると、とても美味しかった。
 きちんと咀嚼し終えるまで待ってくれていたのか、穂香がこくりと喉を鳴らしたタイミングで、郁が笑って首を傾げた。

「おいし?」
「うん。とっても美味しい。ありがとう、郁ちゃん。あ、よければ私のも食べて。ベリーソースなんだけど、きっと美味しいと思うから」
「あ、ほんま? やったぁ! じゃあ、はい。――んあ」
「え……、えっと、」

 にこにこと笑いながら、郁が口を開けて待っている。日曜日の午後だから、周りにはたくさんの人がいた。誰もが自分達の会話に夢中で穂香達のことなど気にもかけていないのだろうが、それでもこれは恥ずかしい。変に思われたらどうしよう。それともこれが普通なのかな。
 どうしたらいいか分からないまま、穂香は自分のパンケーキを一口サイズに切り分け、しっかりソースを絡めてフォークに取った。不安は残ったまま、そっと郁の口元にフォークを運ぶ。
 ご機嫌な犬のようにぱくりと食らいついた郁は、途端に満面の笑みを浮かべて「おいしー」と幸せそうな声を出した。――よかった、間違ってなかった。ほっとしながら自分の分を切り分けていく。

「気分晴れへんときは美味しいもん食べるのが一番やで、ほのちゃん」

 フォークを咥えたまま固まってしまった穂香に、郁はとても優しい笑みを向けていた。

「ほのちゃん、またなんかあったんやろ。こないだから元気ないもん」
「そんなこと……」
「ない? ほんまに? 別にあたしの勘違いやったらそれでええんやけど。でも、ほんまに悩んでることないの?」

 悩んでいることなら山ほどある。元気をなくす理由だって一つや二つじゃない。けれど、それを郁に告げる勇気もなかった。
 白の植物という異世界の化物に狙われることになった。感染者と戦えるようにと薬銃を渡された。苦手な男の人達と喋らなければいけなくなった。家族が佐原の件に巻き込まれ、穂香の立場は今までよりずっと悪くなった。夏美や春菜は穂香から離れ、それまでかかわりのなかった同級生にまで悪意を向けられた。
 どうして私ばかりがこんな目に遭うのかと吐き出せば、少しは状況が変わるのだろうか。否、変わるはずがない。言ったところでどうしようもないのだし、聞かされる方だって迷惑だ。
 押し黙った穂香に、郁は少しだけ困ったような顔をした。



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