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「……なにあれ。ほの、ちょっとここおり。父さんトコ行って警察呼んでくるから。いい? 見つからんよう、隠れとくんやで」
「でもっ!」
「だーいじょうぶ。直接見に行くわけちゃうから。父さんあれでも段持ちやで? ただの泥棒程度やったらあたしと父さんでしばいたるから」
「警察来るまでは、もたしたるから。だから大丈夫」そう言って、部屋の片隅にあったテニスラケットを武器代わりにし、奏は足音を殺して部屋を飛び出してしまった。
今日は家の中を走り回らせてかりだ。――いいや。今に始まったことではない。いつだってそうだった。
頼りっぱなしじゃいけない。そう思うのに、身体は動かない。怖いのは奏だって一緒だろうに、それでも彼女は走る。一歩も二歩も先に進んで穂香の安全を確かめ、わざわざ引き返してきてから大丈夫だよと手を伸ばしてくる。
情けない。私は弱いから仕方がないと、そんな風に日和っている自分がやるせない。
ぐっと奥歯を噛みしめて、穂香は恐怖で動かなくなった身体をできる限り小さくさせた。頭を抱えて耳を塞ぐ。
そうでもしないと、恐ろしい怒号と悲鳴が今にも聞こえてきそうだった。
* * *
「嘘やろ……」
嫌な汗が額を流れていく。右手にテニスラケットをしっかりと握り締めたまま、奏は絶望にも似た感情のど真ん中に立たされていた。
気持ちよさそうに寝ている両親はすうすうと寝息を立てていて、どこから見ても平和そのものだ。そんな異常な平和に、声が震えた。
穂香の訴えを聞いて庭の不審者を発見した奏は、急ぎ足で両親の寝室に飛び込んだのだ。外の不審者に気づかれないように、けれどできるだけ大きな声で、寝ている両親に呼びかけながら揺さぶった。
どんなに熟睡していても、起きるはずだった。二人とも寝汚いわけではなく、むしろ普段はちょっとした物音で目が覚めてしまうほどに眠りが浅い人達だった。
それなのに、どれだけ乱暴に揺り動かしても二人は目覚めない。すやすやと、心地よさそうに眠り続けている。
なにがどうなっているのか分からない。パニックになりかけている自分を、僅かな理性がぎりぎりのところで押しとどめる。
とにかく、警察に連絡しなくては――。
こんなときに限って、寝室の子機は充電が切れている。――だからいっつも充電しとけって言ったやろ! 省エネと言って、充電が切れてからコンセントを差し込む両親の癖を今は恨んだ。
リビングまで戻って親機から電話をかける。ひゃくとうばん。初めてかけるその番号に、手足が震えた。なんと言えばいいのだろう。庭に変な人が来ている、両親が目覚めない、とにかく助けてくれ。そう言えばいいのだろうか。
思い通りにならない手がボタンを押す。
いち、いち、ぜ――
「コんばンハ」
かちゃん。
不安定な音程で告げられた挨拶に、心臓が凍りついた。背後から伸ばされてきた腕によって、コールする前に受話器が下ろされる。受話器を耳元に当てていた仕草のまま、奏は硬直した。なにも持っていないのにその体勢でいることは、傍(はた)から見ればひどく滑稽だろう。
どこか拙い日本語からするに、外国人だろうか。妙に冷静に考えているのは、恐怖と混乱が何周も回った結果だ。
「チョっト、お話イい?」
「きゃあああああああああああああ!」
とんっと肩に手が置かれた段階で、恐怖が理性の糸を断ち切った。喉の奥が焼け切れそうな勢いで悲鳴を上げ、闇雲にラケットを振り回す。風を切る音が聞こえるが、手ごたえは一切ない。
駄目だ。逃げなきゃ。――逃がさなきゃ。
声からして、相手は男だ。このまま力技で応戦したって、いつかは負ける。その前に、なんとかしてこの男から逃げなければ。
突然の反撃に驚いた男から距離を取り、できるだけ物を倒しながら二階を目指す。本当は、このまま玄関から逃げた方がいいに決まっている。でも、穂香を先に逃がさないと――そんな使命感が奏の足を動かした。
男が慌てて追いかけてくる様子はない。ゆっくりと迫ってくる。そのことが余計に恐怖を煽った。
このまま行けば、あの男を部屋に案内することになる。そう気がついたときには、もうすでに扉の前にいた。ここでぐずぐずしていたって、どうせすぐに気づかれる。
なら、男が来る前に窓から逃げ出せばいい。
腹を括った瞬間、扉の向こうから掠れた悲鳴が鼓膜を突いた。
「ほのっ!?」
扉を開けた瞬間、奏は再び凍りついた。ベッドの隅に追いやられ、声を上げる余裕もなく泣きじゃくる妹の姿を見て、奏の中でなにかが切れる。
気がつけば、部屋の入り口近くに置いてあったコンポを持ち上げていた。こんなにも軽かっただろうか。勢いをつけてそれを振り上げ、穂香に迫っていた男に襲いかかった。
振り下ろされたコンポを避けた男が、ひゅっと息を呑む。こうして向き合ってみると、かなりの長身だ。肩幅もしっかりしていて、まるで軍人のように鍛えられている。
恐怖が理性に勝り、怒りが恐怖に勝った。怯える穂香を背に庇うようにして回り込み、男との間合いを取る。泣きじゃくる穂香の声が奏を奮い立たせた。
「――」
男がなにか話しかけてきたようだったが、やはり外国人なのか、その言葉は理解できるものではなかった。暗がりに浮かんだ顔立ちからしてアジア系だが、一体どこの言葉を話しているのかさっぱり分からない。とはいえ、端から犯罪者の言うことなど理解する気もなかった。
――せめてこっちの一人は片づけてやる。
半ば殺すつもりで振り上げたコンポを屈強な男はあっさりと躱し、奏の腕を捻り上げて武器を奪った。背後で穂香が悲鳴を上げる。手首の痛みに顔を歪めた瞬間、男の手が緩んだ。