思わぬ後転、あるいは、好転 1 [ 10/20 ]

*9


 奏のお別れ会が開かれてから、もう数週間が経つ。

 まだ蝉がわんわんと鳴き叫んでいる頃、お隣さんの家にやってきていたお嬢さんは関西に帰っていった。せっかくだからとお呼ばれしたお別れ会は、夏だというのにぐつぐつと煮えた鍋を囲むという、なんともいえないものだった。クーラーをこれでもかと効かせた部屋で、それでも汗だくになりながら三人でつつく鍋は、文句なしに美味かった。
 時折、奏は夏之を見て、わざとらしく「夏さん」と呼んだ。そのたびに、明里は少しだけむくれて――本人は気づいていないのだろうけれど――、それが腹が立つほどにかわいいと思ってしまった。それは奏も一緒だったのだろう。友人に小さな意地悪を仕掛けた彼女は、けれど帰り際に、とんでもない爆弾を落として去って行った。

「夏さん、明里をよろしくお願いしまーす。結婚式には呼んでな〜」
「奏ッ!!」

 顔を真っ赤にした明里が奏の背を叩き、泣きそうになりながら駅まで送っていくのを、夏之はだらしない表情を隠しながら見守っていた。最後くらい気の置けない友人二人がいいだろうとの配慮だったが、これが二人きりで駅から帰ってくることになっていたらと思うと、よかったような惜しいことをしてしまったような、複雑な気分になる。

 奏が帰ってからは、いつも通りの日常が戻ってきた。ひっきりなしに聞こえていた笑い声はなくなり、たまにテレビの音に混じって隣から小さな笑声が聞こえてくる。ベランダに出て一服していると、洗濯物を取り込む音が聞こえて、「こんばんは」と声をかけられる。
 穏やかで優しい日々が過ぎた。
 風は夏に比べるとかなり冷たくなり、長袖のTシャツ一枚だけでは肌寒い。もうすぐ紅葉の季節だ。せっかくだからと休みを確認して明里を誘ってみると、案の定、すぐに返事が返ってきた。絵文字と顔文字で品よく飾られたメールの文面には、「喜んで」と書かれている。何度も重ねてきたデートで、お互いの距離はかなり近づいているような気がする。
 あのバーにも何度か二人で足を運んだ。ほろ酔いで上機嫌の明里を連れ帰る道中、疲れ切ったサラリーマン達の羨ましげな視線を浴びたことは記憶に新しい。
 ここまでくれば、付き合っているも同然だろう。子供ではないのだから、お互いに分かるはずだ。それでもまだ、夏之は明里の名前を呼べずにいた。気恥ずかしいとか、そういう問題じゃない。単純にタイミングを逃しただけだ。明里も「影山さん」と呼び続けているし、突然「明里」と呼ぶのもなんだか気が引ける。
 肝心なところでヘタレだと同級生に揶揄されたことがあるが、こういうところを言うんだろう。
 ベッドに仰向けになって寝転がれば、テレビからは映画のコマーシャルが流れてきた。明里が見たいと言っていた映画だ。見るからに王道のラブストーリーだが、あの子はきっと目を輝かせるのだろう。紅葉狩りのあとに行ってみるのもいいかもしれない。
 そんなデートプランを組み立てながら、夏之は静かに眠りについた。


* * *



「はぁ? 歓迎会? この時期に?」
「そうなんすよ、せんぱーい。なんか来週、アメリカ帰りのエリートがうちに帰ってくるらしくって。だから、その歓迎会のね」
「断る」
「まだなんも言ってないっす!」

 後輩の花隈がキャンキャン吠えたが、夏之は今すぐに耳を塞いでしまいたくなった。昼休みに珍しく昼食を誘ってきたかと思えば、厄介事を持ってきたか。エビのてんぷらがそっと夏之の器に乗せられたが、そんな賄賂で簡単に揺れるほど子供ではない。
 アメリカ帰りのエリートだかなんだか知らないが、歓迎したいのなら勝手にすればいい。参加してくれと頼まれれば参加するが、幹事なんていう楽しくもなんともない役目を負わされるのは死んでもごめんだ。
 小鳥のようにピィピィ鳴く後輩の言うことには、幹事を任されたはいいが、勝手が分からずストレスで今にもハゲそうな気がするらしい。ハゲろ。癖の強い髪を引っ張って、冷たく言い放つ。

「影山先輩、それひどくないっすかー? ちょーっと手伝ってくれたらいいんすよーお。エリートさんでも楽しめるような、そーゆーオシャレな店知りません? チェーン店じゃさすがにまずいって、部長が」
「だからってなんで俺に聞くんだよ。俺もあんま知らねーし」
「でもこないだ、波多野さんが、先輩がかわいい女の子連れて歩いてるの見たって」

 啜っていたそばを吹き出しかけて、慌てて咀嚼した。職場近くのそば屋は相変わらずの喧騒だ。周りには同じ部署の人間はいない。

「それで、なんで俺」
「デートでいろんなとこ行くっしょー? 相当な美人だって聞きましたよ? ね、ね、どんな子なんですか? 何カップ?」

 そんなものは俺が知りたい。
 そう言いそうになるのを呑み込んで、夏之は「オシャレな店」を一つ思い浮かべた。確かにあそこはアメリカ帰りのエリート様も気に入りそうな雰囲気ではあるが、職場の人間を連れて行きたいかと言われれば、思わず眉間にしわが寄る。
 教えたくない。一言で言えば、それだ。別に秘密の場所でもなんでもないが、あの場所をひけらかしたくはなかった。
 子供のようにはしゃぐ明里と、美しい歌姫。柔らかいオレンジの光。白い歯が印象的なピアニスト。優しいマスター。自分のために奏でられた、思い出の曲。

「先輩?」
「……あ?」
「あ? じゃなくて。ぼーっとしてるから。で、手伝ってくれるんすよね!」
「無理に決まってんだろ、自力で探せ」
「ええ〜、そんなぁ」

 項垂れる花隈に、せめてもの情けで伝票を預かってやった。一食分奢ってやるから見逃せ。子犬系男子の名を欲しいままにしている彼は、ぱっと顔を輝かせたあと、「あーっ、誤魔化したー!」と叫びやがった。まったく、騒がしい奴だ。
 花隈には可哀想だが、自力で頑張ってもらうより他にない。
 あそこは、夏之にとっても特別な場所になってしまった。
 外に出ると、冷えた空気が全身を包み込む。ふいに柔らかな髪の感触を思い出して、今日は定時で上がれるだろうかと腕時計を見下ろした。




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