夜、チェシャ猫と出会う [ 7/20 ]

*6


 疲れ切った身体に与えられた手作りの夕飯は、それはもう美味かった。なによりも美味かった。


 相変わらず、夏之と明里の関係は曖昧なまま続いている。曖昧といっても、身体の関係は一切ない。中学生もびっくりの、キスどころか手だって繋がない健全な関係だ。
 だったらただの隣人ではないのかと聞かれれば、すぐには返答できない。
 ただの隣人はベランダの非常扉の穴を通じて行き来したり、休みのたびに二人きりで水族館や美術館、あげくの果てに日帰りとはいえ温泉になんて行ったりしない。
 ならば友人ではないのか。そう聞かれれば、かろうじて頷くことができそうだ。友人ならば、休日にどこかへ遊びに行くことも、互いの部屋で食事をすることもあるだろう。
 あるだろう、が。
 ううん、と、夏之は首を傾げた。友情に年齢は関係ないと思うが、自分達には社会人と学生の差がある。ましてや彼女とは性別が違う。男女の友情は成り立つと思っている派だが、異性の場合、その線引きが突然変わることだって珍しくないとも思っている。
 ただの友人が、わざわざ食事を作って持ってきてくれたりするだろうか。頼めば弁当だって作ってくれる。「お礼は暇な日のデート一回」と、満面の笑みつきで。
 さて、これが本当にただの友人だろうか。だったら恋人かと聞かれれば、それはそれで頷けない。
 どちらもそういったことを口にした試しがないのだ。恋人がいるのかどうか、好きな人がいるのかどうか、そんな小学生でもしていそうな探り合いすら、自分達の間にはない。
 心地いいように思えて、どこか息苦しい関係だ。ならば早々に告白してしまえばいいのだが、どうにも踏み切れない。
 情けないと言われようが、そう簡単に踏み切れるものでもないのだ。どうか考えても見てほしい。
 相手は有名大学の薬学部に通うお嬢様で、英語はぺらぺら、見た目は好みじゃなくても惹かれる美人ときている。そこに加えて、明るく陽気で料理上手だ。
 一見、非の打ちどころのなさそうな彼女と、平々凡々なサラリーマンの自分。どう考えても釣り合わない。期待に胸は弾むけれども、一般人なら誰しもが持ち合わせていそうな劣等感が足踏みをさせる。
 彼女のスペックだけに理由を置いているが、もう一つ告白に踏み切れない理由があることにも夏之は気がついている。どうしてもちらつくあの子の影。最近でこそ思い出す頻度は減ったけれど、それでも、未だにちくりと棘が刺すこともある。

 気がつけば、ベランダ開通事件からあっという間に半年以上が過ぎていた。
 白い息を吐いていた夜は、今ではねっとりと絡みつくような熱帯夜に変わっている。明里はレポートやら試験で忙しいと零していた。もうすぐ学生は夏休みに入るのだろう。
 夏といえば、もうすぐ誕生日だ。夏に生まれたから夏之。小学生の頃は単純すぎるとむくれたものだが、今では分かりやすくていいと思っている。首筋を汗が伝い、蝉が鳴き始めるこの季節。そんな季節に、自分はおぎゃあと泣いて生まれてきたのだ。蝉にさえ負けぬ声で、生を張り上げた。
 
 ――と、思われがちだ。

 しかしながら、夏之にとって夏は苦い思いしかしない季節だ。誰だって「夏之」なんだから、七月か八月に生まれたのだと思うだろう。あるいは九月前半だ。誰だって、単純に夏生まれを想像するに違いない。
 だが、夏之は夏どころかその真逆、冬生まれだ。十一月十八日、地元の北海道では大雪が降った日に生を受けたと聞いている。そんな雪の降る日になぜ「夏」なんてつけたのかと、小学生のときに両親に猛抗議した。母親は「ちゃんとユキってつけたじゃない」と笑い、父親は「夏ってつけたかったから」と照れた。なぜそこで照れる。怒りを通り越して呆れ返った小学校高学年、その頃からすでに悟りのようなものは芽生え始めていたのだと思う。
 「夏之くんって、冬生まれなのに変わってるわね」友達の母親や、先生にそう言われることはもはや日常茶飯事で、慣れっこになっていた。誰に言っても驚かれるのだから、これはもう、一種の持ちネタと化していた。

 あの子も驚くだろうか。ここ最近、さりげなく誕生日を聞き出そうとしてくる明里に免許証を見せてやったら、一体どんな反応を見せてくれるのだろう。
 悪戯を仕掛けるような気持ちでくつりと笑い、夏之は首にタオルを引っかけ、ビールとタバコを持ってベランダに出た。漏れ聞こえてくるテレビの音と、女性同士の笑い声に「おや」とライターを握る手が止まる。
 誰か遊びに来ているらしい。できるだけ会話には意識を集中させないようにしながら、ぷかりと紫煙をくゆらせた。

「――でねっ、そこでニックがさぁ!」
「ぶっ……!」

 すっかり忘れていたその名前が聞こえてきて、タバコがぴゅっと吹き矢のように跳んでいった。慌てて火を踏み消し、嫌な汗が浮かんだ額を拳で拭う。ばくばくと音を立てる心臓に、嫌でも明里を意識していることに気づかされた。
 ニックとは、誰だ。盗み聞きはよくない。悪趣味だ。ここは大人しく部屋に戻って、冷えた部屋で頭を冷やしながらビールを浴びるように飲むに限る。ぎこちなく踵を返した夏之の耳には、まるで拷問のように軽やかに話し声が飛び込んでくる。

「そうそう、それでな、またニックが奏に会いたいって言ってたんよ! やからさ、今度一緒にご飯でも行かん? マリンも誘うから!」
「ほんまにー? まあ、マリンがおるならあたしも行ってみよっかなー」
「やったぁ! じゃあちょっと電話してみるな!」

 地元の友達なのか、気取らない関西弁が新鮮だった。ニックにマリン。そして零れてきた流暢な英語に、胸に足のたくさん生えた虫が這っているような気持ち悪さを覚えて、夏之は一気に残ったビールを飲み干した。
 駄目だ。このままでは胸の気持ち悪さは拭えそうにない。男の嫉妬は見苦しい。どんな雑誌でも、どんなテレビ番組でも、そのフレーズは耳にしてきた。一旦落ち着かねばならない。財布と携帯だけをポケットに突っ込み、町内をぐるりと一周するつもりで外に飛び出した。
 湿気を孕んだ夜風が頬を叩く。伸び始めてきた髪に絡みつき、口や鼻から侵入した空気が肺を冒していく。息が苦しい。エレベーターのボタンを三度ほど連続で押してみたが、表示は一階で止まっていた。これならば階段で下りた方がよさそうだ。
 くるりと回れ右をして、夏之はすぐさまその判断を後悔した。

「あ、影山さんこんばんはー!」

 夏物のブラウスとスカート、高いヒールの靴を履いた明里が、屈託なく笑って手を振る。隣に立っているのは、明里とはまた違った雰囲気の女の子だった。勝気そうな瞳が明里と夏之を交互に見比べ、「知り合い?」と小首を傾げる。明里が頷くと、彼女は途端に笑みを深くして頭を下げてきた。外見だけ見れば気の強そうなとっつきにくい印象だが、どうやら礼儀正しい性格らしい。
 年上としての威厳もあって同じ角度で礼を返すと、彼女はからりと笑った。

「こんばんはー。初めまして、赤坂奏(あかさかかなで)です。明里の家にしばらく世話になるんで、ご迷惑をおかけした場合は遠慮なく仰って下さいね」
「あ、わざわざどうも……。影山です。影山夏之」
「あーあ、例のお隣さん!」
「ちょっと、奏! 気にしないで下さいね、影山さん!」

 ぽんっと手を打った奏はまだなにか言いたげだったが、飛びついてきた明里がその口を塞いで黙らせていた。奏はなにを聞かされていたのだろう。「例の」とはどういうことだ。気にならないはずがないが、今は妙な気まずさでいっぱいだった。
 どうにかしてこの場を立ち去りたいのに、人懐っこい性格なのか、奏は弾むように話しかけてくる。

「こんな時間からお出かけですか?」
「ええ、まあ。ちょっとコンビニまで行こうかと……。そちらこそ、こんな時間から?」

 若い女性二人が夜も更けた頃合いに出歩くのはあまり感心できない。楽しそうに笑った奏が、さらりと髪を掻き上げた。

「ニックに会いに行こうかなーと」
「ニッ、ク……?」

 まずい。はっきりと動揺が声に出た。中途半端に裏返った声に、明里はぱちくりと目をしばたたかせただけで、なにも勘付いた様子はない。――問題は、目の前の彼女の方だった。
 ほんの一瞬、奏の目が光ったように見えた。暗闇で僅かな光を受けて輝く猫の瞳のように、夏之が零した動揺を受け止めて、それはきらりと輝いて見せたのだ。彼女が一体どんな人間なのか、夏之にはさっぱり分からない。ただ一つ、彼女がとても敏いということだけはよく分かった。

「そう、ニック。明里のお気に入りの。さっき連絡したら、店で待ってるって言うんで。影山さんも一緒にどうですかー?」
「えっ? あ、いや、俺は……」
「女二人でこんな時間に出かけるのも不安やし、男の人おったら安心なんですけど。なあ、明里?」
「で、でも、急に誘って迷惑だろうし……!」

 ちらちらとこちらを見上げてくる明里は小動物のようで、気まずげに奏の裾を引っ張っている。「急に誘って迷惑だろうし」これは暗に、来ないでほしいと言っているようなものではないだろうか。断りやすいように仕向けられた言葉ではないだろうか。
 答えあぐねている夏之に、奏がさらに追いうちをかける。

「えー、せっかく明里の大好きなニックを紹介するチャンスやのにー?」

 アーモンド形の瞳が、あからさまに揺さぶりをかけにきた。グロスでふっくらとした唇がきゅうと三日月形にしなる。
 年下の女の子にこうもあっさり見抜かれ、そして釣られるなんて情けないにもほどがある。――ほどがある、けれど。

「あー……、じゃ、俺も行っていい? どうせ暇だし」
「えっ、そんな、いいんですか?」

 チェシャ猫のような笑みが視界の端に映ったけれど、見ないふりを決め込んだ。ちょうどいいタイミングで昇ってきたエレベーターに乗り込むと、下降中のあの独特の感覚が全身を襲った。言いようのない胃の圧迫感と罪悪感に駆られながら歩き出した夜の街は、いつもと違ってどんよりと曇って見えた。
 斜め後ろで女子大生二人がきゃっきゃとはしゃいでいる。そのうちの片方は、それこそ大型のネコ科の動物のように妖しい目つきでこちらを見ていたけれど。



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