epilogue [ 20/20 ]

*epilogue


 出会ってから約一年。
 好きだと言われてから、約一ヶ月。
 明里は、窮地に立たされていた。

「だから、クリスマス! どうしたらいい? どこ行くべき? 助けて奏ぇ」
『そんなん二人で決めたらええやんか』
「影山さ、――な、なつゆきさんがね、私の好きなところでいいって言ってくれたんだけど、でもそんなんどこ選んだらええか分からんもん。だって、だってな? かっ、彼氏、とか、初めてやし……!!」
『……知らんがな』
「薄情者ぉ!!」

 ソファに体育座りで電話をかけながら、明里は涙目で訴えた。電話口の親友は、友達思いのくせにどこか厳しい。呆れかえった声で投げやりに「ホテルでも行けば?」なんて言われて、顔から火が吹き出しそうになった。
 思わず、言葉遣いが関西弁に戻っていく。

「アホか! そんなん行くわけないやろ!」
『なんでよ。付き合ってんねやろ? ……あのなぁ、あんたら、付き合ってからは確かに短いけど、実質どんだけの付き合いよ? それともなに? 明里は清く正しいお付き合いがしたいわけ?』
「そんな言い方……。けど、普通三ヶ月は」
『ヤるまで今から三ヶ月引っ張んの? クリスマスも正月もバレンタインもあるのに?』
「や、やる、とかそんなのはもっと先やろ!?」
『……はぁあああああ!?』

 カマトトぶるなだの夢を見すぎだだのと散々詰られ、一方的に通話を切られた。どうやら虫の居所が悪いときにかけてしまったらしい。恨みがましく携帯を睨みながら、明里は抱えた膝の間に頭を落として溜息を吐いた。
 夏之は優しい。とても。
 それは、あのホタルを見つけたときから知っていた。


* * *



「ホタル?」
「そう、ホタル。私ね、地元が結構田舎なんよ。やから夏になると、近所の川の周りをホタルがわーって飛んでね。それがめっちゃ綺麗やねん」
「ふうん」

 さして興味なさげに相槌を打った真凛が、薄いピンク色のカクテルに唇をつけた。ただ酒を飲んでいるだけなのに、どうしてこうも絵になるのだろう。
 見惚れていた明里を横目で見て、真凛は軽く眉根を寄せた。

「それで、ホタルがどうしたの」
「ああ、うん、それでね。この前、お隣さんでホタル見ちゃって!」
「この時期に? あんたの家、確かマンションじゃなかったっけ」
「うん、そうなんだけど、ほら、これ!」
「……ああ、なるほどね。タバコか」

 用意していた写メを見せると、納得がいったと真凛は喉の奥を鳴らした。
 真冬のベランダで光を放っていたそれは、まるでホタルのようだった。もちろん色もなにもかもが本物とは比べ物にならないが、思わず綺麗と呟くくらいには心を奪われた。
 タバコは苦手としているのにもかかわらず、だ。

「お隣さん、お部屋にタバコの煙とか染みつかないようにしてるんじゃないかなーって」
「彼女が嫌煙家なんじゃないの?」
「……一人暮らしみたいだけど」
「なに、あんたそのお隣さんのこと気になるの」
「別に、そういうわけじゃない、けど……」

 嘘だ。
 寒いのに毎日ベランダでタバコを吸うお隣さんに、興味を抱いた。恋人あるいは妻がいる様子はない。一人暮らしの男性。ファミリー向けのマンションで珍しいとは思ったが、自分の例もあるのでそこは特に気にならなかった。
 まさか都会で、それも真冬にホタルが見られるなんて。興奮気味に話す明里に、「そういえば」と真凛は言った。

「都々逸だっけ。“恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす”ってやつ。奏の友達が好きだとかどうとか、確か聞いた気がする」

 鳴かぬ蛍が身を焦がす。
 だとしたら、あの人は誰かを思って身を焦がしているのだろうか。
 じりじりと焼け付くような音が、胸の奥で聞こえた気がした。


* * *



 結局なにも思い浮かばず、クリスマスイブはテレビの特集やネットで収集した情報を頼りにデートスポットを巡ってお茶を濁した。夜景というよりは人を見に行ったような混雑具合に二人とも疲弊し、なんとかケーキだけ手に入れてマンションまで戻ってきたのはいいが、二人同時に鍵を取り出して固まった。
 いつもなら、お互いに部屋に戻って荷物を置き、ベランダ経由で行き来するが、今日に限ってそんな沈黙が降りる。恐る恐る視線を合わせると、夏之は少し困ったように笑って、鍵をかざした。

「……うち、来る?」



 どうしよう。
 よりにもよって、奏の台詞が何度も何度も頭の中を駆け廻る。カマトトぶるなと言われても、別にそんなつもりはない。ただ、そういうことは結婚してからでもいいのでは、と思っているだけだ。
 コーヒーを淹れて戻ってきた夏之の一挙手一投足に過剰に反応してしまい、その様子に気づいたのか苦く笑われる。恥ずかしいやら情けないやらで、今すぐ舌を噛み切りたい。

「なんでそんな緊張してんの」
「えっ、いや、別に緊張なんてっ」
「そ? ならいいけど。ほら、ケーキ」

 せっかく予約してまで手に入れた有名店のクリスマスケーキだというのに、奏のせいでさっぱり味が分からない。いつの間にか皿の上は綺麗になっていて、一通りクリスマスのイベントはこなしてしまったことに気がついた。
 どうしよう。
 いつも通り適当な時間まで話をして帰るか。それとも――。いいや、それは駄目だ、だってまだまだ覚悟が決まらない。それにいくらなんでも早すぎる。それに、そういうときってどうすればいいのだろう。今日はしないけれど、今日はまだ早いけれど、けれどいつかそういうときが来るのだろうし、そのときのために自分はどういった覚悟を決めればいいのだろう。服は、下着は、メイクは、髪は。
 そんなことばかり考えてしまう自分が恥ずかしくなって、明里は青いビーズクッションに顔を叩きつけるように埋めた。

「そう言えばさ」
「……ひゃい」
「あのとき、ニックや真凛ちゃんになに言ってたんだ? 真凛ちゃん言ってたろ。『さっき喚いてたこと直接言ったらどうだ』とかなんとか」

 強制的によみがえらされた記憶に、今度こそ獣のような呻きが漏れた。隣の夏之が不審がっているのは肌で感じて分かるが、今の状態では顔を上げられそうにない。
 夏之の誕生日、その夜に会うはずだったのに、明里はサプライズの気持ちで日付が変わると同時にベランダを渡った。ただおめでとうと言いたかった。それが一番最初で、驚いたり喜んでしてくれたら、それだけでよかった。
 けれどあの夜に明里が見たのは、夏之に寄り添う女性の姿と、その手を握る夏之の姿だった。――今まで信じていたものが突き崩されて、パニックになった。思い上がっていた自分が恥ずかしくて、逃げ出した。あの人の隣に他の誰かがいるだなんて想像もしていなかった自分の愚かさに、吐き気がした。
 誤解だと言われても信じることができず、無理矢理キスをされて、ますます訳が分からなくなって。ただの遊びだったのだろうか。そんな風に考えた。
 逃げ込んだ先は大好きなニックの元だ。真凛もいたから、日本語と英語の入り混じった愚痴を二人に散々零していた。思い返せば迷惑以外の何物でもなかっただろう。二人には――そして佐野にも――、とても悪いことをしたと反省している。

「……忘れてください」
「なんで」
「なんででも」

 ――こんなにも好きなのに、なんであの人は好きって言ってくれないの。

「時効だろ、聞かせてよ」
「一ヶ月で時効なんて短すぎますっ」

 ――どうしたら好きって言えるの。どうしたら、素直になれるの。

「じゃあさ、それでいいから顔見せて」
「無理」
「なんで」
「なんででも!」

 ――もう一回、もう一回だけでいいから、

「分かった。じゃあ――」

 夏之が言葉を切ったかと思えば、大きな手のひらに肩を掴まれた。え、と思う間に身体が傾く。クッションを顔からずらせば、見上げた先に夏之の顔があった。見下ろしてくる少しだけ意地悪な瞳に、どくりと心臓が大きく跳ねる。
 やめてほしい。そんなに焦らなくても、血は全身に回るのだから。
 素早くクッションを投げ落とされ、顔の横に手をつかれた。押し倒されている体勢なのだと気がついたときには、耳まで熱くなっているのを自覚し、慌てて目の前の身体を押しのけようとしていた。
 だのに、彼はびくともしない。それどころか胸を押す明里の手を掴まえて、指先に軽く歯を立ててくる。その刺激に、飛び出た声がひっくり返った。

「かっ、かげやまさんっ!!」
「夏之。……いつになったら呼べるわけ」
「なつゆきさん! どいてくださいっ!!」
「なんで」
「なんで、って、そんな、こんな」

 合気道だとかウェンドーだとか、自慢にしていた特技を披露する余裕はまったくない。ただただ困惑して、頭の中がおもちゃ箱をひっく返したかのような騒ぎになっている。
 「こんな?」と、夏之は明里の言葉を引き継いだ。こんな風に意地の悪い言い方をするようになったのは、つい最近だ。低く囁かれるたびに心臓が飛び出しそうになる。泣き出しそうな明里を笑うでも慰めるでもなく、夏之はまっすぐに見下ろした。

「こんな、なに?」
「っ、こんなの、早すぎます! こういうのはその、じゅ、順番が」
「……順番ねぇ」

 夏之がゆっくりと身を起こす。分かってくれたのかと思って、ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、先ほどまで齧られていた手が絡め取られ、反対側の手までしっかりと指を絡めて握られて、身体を引き起こされた。至近距離で向き合って、耐え切れずに顔ごと目を反らす。
 絡めた指の感触を確かめるように握られて、そこに血が沸騰するかと思った。

「明里」

 囁くように呼ばれて、自分のためだけに発せられた声がこの上なく嬉しい。吸い寄せられるように視線を持ち上げれば、真剣な眼差しの夏之と目が合った。
 けれどその表情は、すぐに意地悪く歪む。

「名前は呼んだ。手も握った。次は?」
「え?」
「ま、順当でいけばこうでしょ」

 するりと指がほどけたかと思えば、すぐさま強く抱き締められる。めまぐるしく変わる状況についていけず、すでに脳内は爆発寸前だ。
 名前を呼んで、手を繋いで、抱き締めて。
 ――そのあとは。

「ひゃっ……」

 頬に、目尻に、こめかみに。唇以外の顔の部分に、雨のようにキスが降ってくる。壊れたように拍動を続ける心臓が怖い。唇の柔らかさがこそばゆく、僅かに残るタバコの香りに酔いそうになる。
 身体が竦むのは緊張か恐怖か、それとも、歓喜か。
 鼻先の触れ合う位置で夏之は動きを止めた。ぎゅっと瞼を閉じた明里に、夏之は穏やかに――けれど逆らい難いなにかをもって命令する。

「明里、目ぇ開けて」

 恐る恐る目を開けた明里は、すぐ近くにある瞳を見た。ご褒美と言わんばかりに額に唇を落とされて、またしても首が竦む。耳元を掠めた笑声が悔しい。――悔しいのに、愛しい。
 涙目で睨み上げれば、夏之はおどけたように肩を竦めて飄々と言ってのけた。

「だって、順番だろ?」

 名前を呼んで、手を繋いで、抱き締めて、そして、キスをする。
 緊張でこわばった身体は伝わっているだろうに、夏之はそんな明里にはお構いなしで顔を近づけてきた。吐息が触れる。唇が重なる直前で、「今は目ぇ閉じて」と囁かれた。どうしたらいいのか分からない。
 息の仕方は、首の角度は、ねえ、どうすればいいの。
 ガチガチに固まった明里の身体を抱き締めて、夏之の唇がそっと明里のそれに触れた。ほんの一瞬下唇をやんわりと食まれ、肩が跳ねる。数秒で離れていった熱に、たったそれだけで頭がぼうっとした。

「……このまま続けたら死にそうだな、お前」

 呆れたような、困ったような、そんな声。
 抜け殻状態の明里の頭を優しく撫でて「今日は見逃してやるよ」なんて偉そうに囁かれた瞬間、運悪く、明里はあのときニックに叫んだ台詞を思い出してしまった。


『もう一回、もう一回だけでいいから、――キスしたい』


 恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす。
 きっと自分は、真冬のホタルに捕まったのだ。


*Fin

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