1.ファウストとホーテン [ 21/22 ]
*足の甲にキス
蒼い世界など望んでいない。
誰もが夢見る甘ったるい正常な世界など、いつ、どこで、誰が望んだ。
そんなものはいらない。
「ホーテンさま」
豪奢な衣服に身を包んだその人こそ、ぼくの世界だ。
ぼくらを拾い、命を掬い上げてくださった。
波打つ長い金茶の髪に、柔らかな茶色の瞳。そこらの女よりもよほど美しい乳白色の肌はしっとりと潤いを湛えていて、極上の絹のような触り心地だ。
泳げそうなほどに大きなベッドの上で、真新しいシーツの波にホーテンさまが身を横たえている。その指先が、ゆっくりとぼくを誘った。言葉で命じられるよりもずっと雄弁な仕草に、ぼくの心臓が喜びの声を上げている。
この美しい人に求められれば、目玉だろうが心臓だろうが喜んで差し出そう。欲してくれるのなら、なんだって。この人の物になりたい。この人の一部に。この人はぼくの唯一の世界で、生きる理由だ。
ホーテンさまは寝そべったまま、ベッドの端からしなやかな足先をついと差し出した。色を塗り、宝石を貼りつけた爪がきらりと光を弾いていてとても綺麗だ。ぼくはその足先を恭しく掲げ持ち、狂いそうな歓喜を覚えながらそっと唇を寄せた。
美しい人に不浄の唇で触れる背徳感。咎められることのない優越感。
足の甲に、爪先に、親指の腹に、土踏まずに。
犬のように口づけて、愉悦に身を燃え上がらせる。
「ファウスト、楽しい?」
「……はい」
「でも、そうは見えないけどねぇ。どうせならもう少し楽しそうな顔をしてよ」
「申し訳ございません、ホーテンさま」
ああ、ルチアが羨ましい。
こんなとき、ルチアだったら小さな顔にありとあらゆる表情を浮かべて、ホーテンさまを楽しませることができるのだろう。表情の乏しい自分の顔が嫌いだ。
「ねえ、ファウスト。クレミーアだったらどんな顔をするのかな。ふふっ、ああどうしよう、想像するだけでたまらないよ。クレミーアがぼくの足元に跪いて、キスをするんだ。隷属のキスだよ。あははっ、どうしよう、ねえ、どうしようか! あの子の舌も、きみと同じくらい熱いんだろうね」
「ん、ぅ……」
「クレミーアにはどんな服が似合うかな。あの子は赤がとっても似合うから、赤いドレスを着せてあげたいなぁ。ああでもね、光に透ける薄絹だけを纏って、天使みたいな恰好で鳥籠に閉じ込めるのも素敵だね。ぼくだけのために歌うカナリアだよ。ああ、クレミーア……」
ホーテンさまの爪先を口の中に迎え入れながら、うっとりとした微笑を浮かべる彼を見上げる。目元に朱を散らすその姿の、なんと美しいことだろう。
――なんと、憎いことだろう。
彼の中にいるのはぼくではなく、ただの女だ。銀の髪を持って生まれた、聖職者の女。その女が、ぼくの世界を脅かす。
今のホーテンさまの中にぼくの存在はない。彼を占めているのは銀髪の女であって、ぼくではない。
そんなに赤が似合うというのなら、ぼくがいくらでも染めてやろう。腹を貫き、肩を抉り、脚を落とし、耳を削いでいこう。ああ、それから、二度とホーテンさまを見ることができないように目玉も潰さないと。
ホーテンさまが興味を失くすくらいに醜くして、ぼくの世界を保たないと。
「んっ……、ファウスト、くすぐったいよ」
口いっぱいに指を頬張り、舌を伸ばして。爪と肉の間、指と指の間を、丹念に舐める。時折走る爪先の震えが愛おしい。舌先に宝石の硬さが触れ、吸い付けば柔らかく頭を撫でられた。
ホーテンさまの目が、ぼくを見る。ぼくだけを。なんて幸せな時間だろうか。
「かわいいファウスト、お願いがあるんだ」
「はい、なんなりと」
ホーテンさまがお望みなら、なんだって。
「ベラリオのところへ行ってきてよ」
「……え?」
「ちょっと行って抱かれておいで。あの子は子どもも好きみたいだし、大丈夫だよ。ファウストはかわいいから。ルチアと一緒ならきっと気に入ってくれるよ。それでしばらくしたら、殺しちゃって」
「ベラリオ殿下を、ですか……?」
「うん。だって、邪魔なんだ。ぼくが王様にならなきゃ、クレミーアとは結婚できないでしょう? 大人しくしてくれればいいんだけど、ベラリオは王様になりたいみたいだもの。だから、殺さなきゃ」
身を起こしたホーテンさまが、微笑と共にぼくの頬に手を伸ばす。
「かわいいかわいい、ぼくのファウスト。大丈夫、君ならできるよ。怖いなら、『初めてだから優しくして』って言えばいい。それであの弟がどこまで優しくしてくれるかは分からないけれど、言わないよりきっとマシだよ」
「しかし、あの、ホーテンさま……」
「なぁに?」
「わ、私、は、ホーテンさまのお傍に、」
「――ファウスト。ぼくのお願いがきけないの?」
悲しげに顰められた眉に、血が凍る。
違う、この人を悲しませてはいけない。ああ、ぼくはなにを、なんて浅ましいことを考えたのか。
「君がもう少し大人なら、他に道があったのかもしれないけれど。でもね、ファウスト。今の君に、他になにができるっていうの? 弟が色狂いだってことは、君にとって幸いなことなんだよ。それだけ取り入りやすいってことなんだ。ぼくの役に立ちたくないの?」
「……失礼いたしました、ホーテンさま。ホーテンさまのお役に立てるのであれば、なんなりと」
心臓でさえ差し出すつもりでいたのだ。色の一つや二つ、なんてことない。未知の恐怖に震える身体は、ホーテンさまのお望みを叶えることのできる喜びの震えへと塗り替えた。
あなたのお望みのままに。そう答えれば、ほら、ホーテンさまは優しく笑う。
「ああ、そう。それでこそぼくのファウストだよ。ご褒美をあげる。――ほら、キスして」
差し出された足の甲に、ぼくは隷属の証を捧げた。
(足の甲へのキスは、隷属のキス)