1.スズヤとハルナ [ 2/22 ]


 ねえハルちゃん、知ってる? 額の上のキスは、友情のキスなんだって。


 唐突にそんなことを言ってきたスズヤの額に、ハルナは瞬間的に、己の手のひらを当てていた。「熱なんてないよ、ひどいなあ」けらけらと笑うこの男はえらく上機嫌だが、こういうときは大抵ろくなことにならない。
 どうやらスズヤは、酒を飲んできたらしかった。ほんのりと赤くなった目元といい、どこかふわふわとした喋り方といい、どこからどう見ても酔っ払いだ。ハルナからすれば常に面倒な相手だが、酒に酔ったスズヤほど面倒なものはないと思っている。酔うのが珍しいだけに、余計だ。
 二人ともすでに個室を与えられている身分なのにもかかわらず、スズヤは昔のように一緒に寝ようと言ってきた。鬱陶しい。そして気色悪い。

「帰れ、酔っ払い。水なら出してやる」
「酔ってないよ、ひどいなあ。あ、ねえハルちゃん、今日飲みに行ったとこね、すっごくかわいい子いたよ」
「そうか」
「マミヤちゃんみたいだった」
「ぶっ!!」

 簡易の流し台で歯を磨いていたハルナは、歯ブラシを口に突っこんだまま盛大に噎せた。泡が飛んで鏡に散る。舌を刺激する辛さと苦さに眉が寄る。口をゆすいで戻ると、我が物顔でベッドに横になった酔っ払いが、にやにやとしながらこちらを見上げてきた。
 一体どれだけ飲んだのか。あのスズヤがこうも酔っている姿を見るのは、過去を振り返っても一度あったかないかだ。上官に付き合わされて無理やり飲まされた新人時代、スズヤもハルナも前後不覚になるまで飲まされて昏倒したので、正直記憶にない。
 誰と飲んでいたのかと訊けば、消防班のメンバーだとふわふわとした口調で答えた。マミヤ云々のくだりは忘れたらしい。

「空渡艦も飛行樹もさー、木なわけじゃん? どんなに鉄より丈夫だっつっても、やっぱ木だから燃えちゃうじゃん」
「そうだな」
「だからさー、おれら消防班って結構大事なのよ」
「そうだな」
「ハルちゃん聞いてる?」
「そうだな」
「ハルちゃん愛してる」
「死ね」
「聞いてるんじゃん」

 げらげらと笑って、スズヤは枕を投げつけてきた。戦闘技術ならばハルナの方が秀でている。落として廊下にでも捨ててやろうかと本気で考え始めたところで、スズヤの声が僅かに色を変えた。
 いつの間にか眼鏡を外した彼は、ちっとも心のこもっていない調子で愛の言葉を囁いた。あまりにも中身のない言葉に、鳥肌が立つよりも呆れが勝った。腕で目元を覆って仰向きに寝そべるスズヤを、真上から見下ろす。枕元で光を弾く眼鏡が、妙に目に刺さった。

「……俺達は、お前達なしじゃ安心して飛べない。艦にお前達がいると思うから、飛行樹で思う存分暴れられる」

 負荷をかければかけるだけ、飛行樹は熱を帯び、発火の危険性が高くなる。表面はどれほど炎で炙っても燃えない塗装を施しているが、内側からの発火は防ぐのにも限界がある。
 自力での消火訓練は受けてはいるが、帰る艦にプロがいると思えば安心感は桁違いだ。
 ベッドにもたれるように床に腰を下ろし、ハルナは先ほど投げつけられた枕をスズヤの顔に押し付けた。朝、床に投げ出していた新聞を広げて、大きな記事から目を通す。

「ハルちゃんさあ」
「なんだ」
「なんで女の子じゃないの?」
「知らん!」

 なにか殊勝な言葉でも飛び出すかと思えばこれだ。向き直って振り上げた拳は、易々と受け止められた。酔っ払いのくせに腹立たしい。
 油で爪の間が黒く染まった指先が、ハルナの頬をなぞった。払いのけるのも文句を言うのも、酔っ払い相手ではなにもかもが面倒で、されるがままになっていた。指先が、ハルナの瞼に触れる。閉じた瞼の上から眼球の丸みを確かめるように撫でられた。もう片方の瞳で見上げたスズヤの顔は、珍しく分かりやすく歪んでいた。それを世間では、嫉妬だとか、羨望だとかという名で呼ぶのだろう。
 触れていた人差し指が、親指に代わる。軽く力のこもった指先に、震えるでもなく、ハルナはただまっすぐにスズヤを見上げた。身長はハルナの方が高いが、ベッドの上と床の上だ。それなりの差がある。
 このまま力を入れられれば、柔らかい眼球は容易く潰れてしまうだろう。いくら体を鍛えていても、そこばかりは鍛えようがない。

「……抵抗しないの?」
「取って食われるわけじゃなし、無駄なことはせん」
「ははっ、確かに! ハルちゃんなんか食べたって、腹壊すだけでなんの得にもなりゃしない」

 そう言いつつ、スズヤは閉じた瞼の上から指をどかさない。
 顔の半分を押さえられている違和感にいい加減イライラとしてきた頃、スズヤの指先がやっと移動した。ハルナの短い前髪を掻き上げたかと思えば、額に軽く口づけられる。

「なっ、やめろ酔っ払い! 気色悪い!」
「さっきゆったじゃん、ゆーじょーのキスだよ、ハルちゃん」
「いらん!!」
「ひっどーい。おれ傷ついたー、もう立ち直れないーもっとちゅーしちゃろー」
「やめろド阿呆!! こんっの大馬鹿が!」

 頭と首の後ろを掴まれて、さしものハルナも焦りが生じた。ぐっと引き寄せられたかと思えば、音を立てて何度も唇が降ってくる。額に四回目のキスが落ちてきた瞬間、遠慮の欠片もない一撃をスズヤのみぞおちに叩き込んだ。ぐっと呻いて前のめりに倒れ込む体を支えることなく、そのままついでとばかりにベッドの下に引きずり落とす。
 なにが友情のキスだ。額を拭いながら、ハルナは毒づいた。
 しこたま酒を飲んできたのであろう相手に拳を叩きこむのは気が引けたが――これが自分の部屋でなければ迷わない――、幸いにもスズヤの胃から逆流してくるものはなさそうだった。ベッドに座り、青白い顔で蠢く男の背中を踏みつける。なにかもごもごと悪態をついていたようだが、「キスしたいくらい俺に友情を感じてるんだろう」と吐き捨ててやれば、はっきりと「死ね」と返された。
 枕元でなにかが光る。拾い上げたそれは、スズヤの眼鏡だ。フレームのない、レンズだけのもの。透かして見たが、さほど度はきつくない。それでも、“飛べない理由”にするには、十分すぎた。

「……ハルちゃん」
「なんだ」
「吐きそう」
「吐いたら顔の造形が変わるまで殴るぞ。便所にでも行ってこい」

 よたよたとトイレに向かうスズヤの後姿が、あのときのそれと重なった。
 三年前。空中での火災。墜落した機体は大破。それでも奇跡的に、手足の骨折と打撲、軽い火傷だけで生還した、優秀なパイロット。彼はテールベルト空軍の誇りだった。
 けれど彼は、その事故で目を傷つけた。
 視力を失ったわけではない。しかし薄いレンズ越しでなければ鮮明に見えない世界は、空を飛ぶのには不向きだ。

「……馬鹿が」

 水の流れる音がする。青白い顔で出てきたスズヤは、大層気分が悪そうだった。吐きにくい体質だと言っていたから、吐きたくても吐けなかったのだろう。弱っている姿を見ること自体が稀だった。日頃は散々からかわれているのだから、ざまあみろと思うことくらいは許されるはずだ。
 ハルナの足元でぐったりと横になったスズヤを見下ろして、手の中の眼鏡をどうしようかと考えた。うんうん唸るスズヤは、どうせこのまま泊まっていくに違いない。廊下に放り出してもいいが、どうせ誰かがハルナの部屋に投げ入れてくる。
 スズヤに恩を売っておこうと考える猛者はいないのかと思ったが、恩を売るよりも握られた弱みを曝露される方が恐ろしいだろうから、誰も手を出さないのだろうと思い至った。

「ハルちゃーん」
「お前はそれしか言えんのか」

 真っ青な顔で、気持ち悪さから涙の滲んだ瞳で、いつも飄々としたスズヤがハルナの目をまっすぐに見つめた。

「よく、見えない」

 手の中にある眼鏡が、かちゃりと音を立てた。
 息が詰まる。
 うんうん唸りながら、スズヤはうわごとのように「それがないとよく見えないよ」と繰り返す。ハルナにスズヤの気持ちは分からない。どうしてここまで彼が酔いつぶれているのかも、弱みを見せたがらない彼がどうしてこんな姿を晒しているのかも。
 分からないけれど、想像はできた。

「ハルちゃん……?」

 「吐きそう」と呟くスズヤの傍らに膝をついて、脂汗で張り付いた前髪を払ってやった。軽く溜息を吐いて、吹き出物一つない綺麗な額に唇を押し当てる。
 すぐさま何事もなかったように立ち上がって、ペットボトルの水を頭上に落としてやった。あまりの仕打ちかとも思ったが、これくらいで死ぬわけもないので気にしないことに決め込む。嫌味が飛んでくるかと思いきや、スズヤは額を押さえ、あんぐりと口を開けてハルナを見上げていた。

「大口開けてると、虫が入るぞ」
「いや、ていうか、いま」
「なんだ?」
「いやぁあああああハルちゃんにキスされたぁああああ! お嫁に行けない!」
「ふっ、ふざけるな!! 大体嫁ってなんだ嫁って!」
「あ、ナガト! アカギ! ちょうどいいところに! 助けて、ハルちゃんに食われる! 襲われる!」

 四つん這いでドアをこじ開けたスズヤが、たまたま通りかかった部下二人にとんでもないことを言い放った。二人の視線が顔色の悪いスズヤとハルナを何度か往復し、ハルナで止まって二人揃って一歩後退した。

「ハルナ二尉、まさかそんな趣味が……」
「阿呆ッ! 違う!」
「聞いてアカギ、ハルちゃんったら弱ったおれに無理やりちゅーして、」
「お前も俺にしてきただろうが!!」
「ひどいっ、おれのせいだって言うの!?」

 わんわんと泣き真似をするスズヤに、さらにハルナは怒号を轟かせる。騒ぎを聞きつけて廊下のあちこちから人が顔を出しているが、それに気づいたのはしばらくしてからだった。
 繰り広げられるやり取りに、耐え切れずといった風体でナガトが吹き出す。その隣でアカギが憐れむようにハルナを見ていたのも、このときのハルナは知る由もなかった。

「……ハルナ二尉、かんっぜんに遊ばれてるな」
「かっわいそー」
「顔笑ってんぞ、ナガト」

 ――生きていてよかった。
 数分前に思っていたことなどすっかり忘れ、ハルナは腹の底から叫んでスズヤを蹴り飛ばした。


「死ねっ!!」




(額へのキスは、友情と祝福のキス)

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