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「ババロア、ですか?」
「ああそうだ、それだ。アレ食いてェ。白いくせにうまいんだよな、アレ」

 これは作れということなのだろうか。
 黙って小麦粉を棚に戻すと、アカギは不思議そうな顔をした。「いいのか」あまりにもきょとんとした表情でそう訊ねられたので、やはりババロアを作れとのリクエストではなかったのかと一瞬身を固くしたが、「ババロア……」と蚊の鳴くような声で言うと、彼は途端に表情を綻ばせた。
 いつも気難しい顔をしていたというのに、目元が和んだその表情は思いのほか柔らかい。訳もなく恥ずかしくなって視線を逸らしたが、アカギがそれに気づいた様子はなかった。顔が熱い。ぱたぱたと手で顔を扇ぎながら、穂香はババロアの材料をカゴの中に放り込んでいった。
 途中、なにか会話をしたような気もするが、よく覚えていない。ちらちらと見上げたアカギの顔はいつも通りの仏頂面で、先ほどの笑みが嘘のようだったことははっきりと覚えている。



 帰宅して夕飯作りを始めようとすると、暇を持て余したのかアカギも手伝うと言って包丁を握ってくれた。ニンジンを任せる間、穂香がピーラーでじゃがいもの皮を剥く。特に会話らしい会話はなかったけれど、それでも、不思議と息の詰まる感覚はない。目の前のことに集中すればいいのだから、それも当然だった。

「ほれ、切れたぞ」
「あ、すみません……」

 切ったニンジンを入れておく皿を手渡したのだが、受け取るなりアカギは難しい顔をしてしまった。途端に不安が穂香を支配する。
 なにか余計なことを言っただろうか。不機嫌にさせるようなことをしただろうか。重ねて謝ろうとした穂香よりも先に、アカギが言った。

「お前、すぐに謝るクセどうにかしたらどうだ」
「え……?」
「なんでもかんでも『すみません』と『ごめんなさい』で済むと思ってんだろ。それ、見ててムカつくんだわ」
「す、すみませっ」

 反射的に謝りかけて、慌てて口を閉じる。そんなことないと叫びたかった。すべてが謝れば済むだなんて、そんなこと思ったこともない。ただの口癖だ。「穂香ちゃんは礼儀正しいなぁ」今までだって何度もそんな風に言われてきた。それが誰かを不快にさせているだなんて、考えたこともなかった。
 謝るなと言われたが、ならばどうすればいいのだろう。機嫌を損ねてしまってすみません。そんな言葉しか思いつかないのに。
 アカギは、いったいなにを求めているのだろう。

「都合悪くなったらだんまりかよ」

 皮を剥いたじゃがいもが取り上げられ、アカギによってリズムよく一口サイズに切られていく。
 少しは距離が近づいたかと思ったのに、それは自分の勘違いだったのだろうか。俯いた穂香を尻目に、アカギは手際よく材料を刻んでいった。

「お前、ほんっと奏と似てねェのな」

 そんなもの、似ていなくて当然だ。

「これ、こんなもんでいいか」
「あ、は、はい。大丈夫、です。すみ、――ありがとうございます」

 綺麗にカットされたじゃがいもが、ニンジンと同じ皿に移されていく。
 これ以上ここにはいたくなくて、けれど自分の家から――それも料理中に――逃げ出すことなどできようはずもなく、穂香はただひたすらに唇を噛み締めて俯いていた。
 恥ずかしい。誰かに欠点を指摘されることも、それが腹立たしいと言われることも。どうしてそんなことを言うのと心の中で叫んでも、この唇はぴくりとも動かない。弱虫な自分が嫌いだ。臆病でなにもできない。そんな自分を改めて目の前に突き付けないでほしい。

「なんだ、ちゃんと礼も言えんじゃねェか。――オイ、ぼーっとしてないでコッチの皮も剥け。切れねェだろ」
「えっ? ひゃっ!」

 ぽいっと無造作に玉ねぎを放られて、慌てて両手で受け止める。なんとか落とさずに済むと、それを見たアカギが「ナイス!」と悪戯っぽく笑った。
 ――意味が分からない。本当に、彼はなにがしたいのだろう。
 混乱したまま玉ねぎの皮を剥き、つるりとした身を手元に返す。ざくざくと切られていく半透明の玉ねぎからは、つんとしたにおいが漂ってきた。

「うわ、なんだコレ! すっげェ、目、いっ、クソッ、いってェ!」

 あんなにも恐ろしい化け物と平気な顔で戦える強い人が、玉ねぎ一つで涙を流す姿がとても不思議だった。真っ赤に染まった目から、涙がぽろぽろと落ちていく。
 切る役目は自分がすればよかった。アカギの横顔を斜め後ろから眺めながら、しみじみとそう思った。そうしていれば、今泣いたとしても、玉ねぎのせいにできたのに。泣きたいのに泣けなくて、胸の辺りがパンクしそうなほどに苦しい。
 ――どうして私なの。いつだって、そう思っている。
 それは別に、今回のことに限った話ではない。
 どうして私ばかり、こんなにも苦しい思いをするの。どうして私だけ、こんなにも不幸なの。どうして、どうして。
 内に溜まった不満には、必ず誰かが逃げ道を用意してくれた。「穂香ちゃんはいい子ねぇ」「赤坂さんはとっても真面目だから助かるわ」周りが勝手に「私」を作る。だから、それに従って行動しなければならない。そう考えているのは、つらいけれど、楽だったのに。
 彼らといると自分の嫌な部分ばかり見せつけられて、ますます自分が嫌いになってしまう。

「……なんで、私なの」

 音にする気のなかった呟きがアカギの耳に届いたのか、穂香には分からない。慌てて蛇口を捻って水音で誤魔化したから、もしかしたら聞こえていなかったかもしれない。
 何事もなく作業を続け、ことこととカレーを煮込んでいた頃合いでようやく奏とナガトが帰ってきた。ナガトはキッチンに立つアカギを見て指さして笑い、アカギはおたまを片手に怒鳴り散らして応戦した。そんな二人を見て、奏が笑う。なんとも平和な光景だ。
 平和すぎて、頭がおかしくなりそうなほどに。



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