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植物園の比ではない。比べ物にならない緑気だ。中央に設置された大きなカプセルは蝶々のさなぎのようでもあったし、まだ固い花のつぼみのようでもあった。それが時折、ぼんやりと黄緑色の淡い光を放っている。
ここは本当にテールベルトなのだろうか。白の植物が巣食う世界からはあまりにもかけ離れた光景で、現実味がない。
夢のような空間に武骨に塗られた漆黒のヴァル・シュラクト艦が居座る様は、花畑に取り残された棺のようでもあった。
「なーるほど。母さんってば、こんなすごいもの作ってたの」
ああ、なんて憎たらしい。
案内されるままに艦に乗り込み、ドルニエはシートベルトを装着してゆっくりと目を閉じた。ゴーグルが目元を強く締め付ける。酸素マスクがシュウっと音を立て、新鮮な空気が喉の奥に入り込んできた。
あと数分もすれば、世界が変わる。カウントが聞こえる。光が明滅している。マスクをつけているにもかかわらず甘い花の香りが一際強くなり、強い衝撃が華奢な身体を襲った。
シートの背面に叩きつけられるような感覚。胃の腑が掻き回され、頭が潰されるような強い痛み。耳鳴りがし、吐き気が込み上げてきたそのとき、――確かに、世界が変わるのを感じた。
踊るように艦を飛び出せば、そこは色で溢れていた。
涼やかな風に乗って色が揺れる。緑が、赤が、黄が、紫が、白が、当たり前のように溢れている。
ドルニエは街路樹を見やり、家の玄関に飾ってあるプランターの花に視線を移してにっこりと笑った。細い指先が花びらに触れる。柔らかく受け止めたそれを彼女は無情にも引きちぎり、手の中に残った花びらを握り潰して捨て去った。
緑がある。当たり前のように。それがこんなにも妬ましい。
「ねえ、そこのあなた。ちょっと聞きたいんだけど。――って、ああ、コードいじってないから分からないのよね」
近くを通りかかった青年に声をかけたが、青年はドルニエを見て少し照れくさそうに、けれども困ったように笑うばかりだ。馬鹿馬鹿しい。吐き捨てるように呟いて、青年の腕にそっと触れる。それだけで顔がだらしなく緩むのだから、男という生き物の浅はかさに反吐が出る。
ドルニエは胸元から取り出した一枚の写真を彼に見せ、そっと言語コードを調整して微笑んだ。
「スみマセン、このヒトたち、知りマセんか?」
* * *
お湯を沸かすだけでこんなにも緊張するだなんて、思ってもみなかった。リビングからは再放送のバラエティ番組で飛び交う笑声が聞こえてくる。だがそこにいる人物は、それを見てもくすりともしなかった。
リビングにいるのは、姉でもなければ両親でもない。普段の作業服でこそないものの独特の雰囲気は変わらないその人は、ちらりと穂香を見てなにも言わずに手元の新聞に目を通し始めた。
――どうしてアカギなのだろう。せめてナガトだったなら。
以前にも似たようなことを思った気がしなくもないが、本心なのだから仕方がない。
男性は苦手だ。特に、アカギのような武骨な男性は。
よりにもよってこのタイミングで温泉旅行に出かけてしまった両親は、今頃関東地方にあるかの有名な温泉街でゆっくりと羽根を伸ばしていることだろう。
奏とナガトは二人で買い物に出かけている。夕飯の買い物程度ならすぐに戻ってくるだろうが、あの二人は少し足を伸ばした大型ショッピングモールに出かけてしまった。服やらなにやらを見てくるのなら、夕方まで戻ってこないに違いない。
秒針の進む音だけが、やけに耳につく。紅茶とコーヒーを淹れてアカギに出したが、短い礼だけで会話らしい会話はない。虚しく響くテレビのわざとらしい笑い声がさらに座りを悪くさせ、カップの中の紅茶を飲み干す頃、穂香は堪らなくなって切り出した。
「あ、あの……、私、少しお買い物に出てきます、ね」
「あ? どこに」
「近所のスーパーです。すぐ、そこの」
歩いて十分ほどのところにあるスーパーは、ちょっとした買い物には十分だ。この場から逃げ出すにはちょうどいいと思っての発言だったにも関わらず、アカギは「そうか」と頷いて新聞を畳み始めた。ついでにマグカップまで流し台に運ばれて、中腰の体勢のまま固まってしまった。
目を丸くさせる穂香に、アカギは仏頂面のまま顎で玄関を示す。
「俺も行く。早く準備しろ」
正直言って、気まずさで息が詰まりそうだった。護衛を目的としているのだから、アカギが穂香についてくるのは確かに当然のことかもしれないが、買い物カゴを片手にスーパーの棚を眺める間中、真後ろに立つ必要があるのだろうか。なにも悪いことはしていないのに、まるで警察官かなにかに見張られている犯罪者のような気持ちになる。
かといって離れてくださいと言えるわけもなく、落ち着かない気持ちのまま穂香はかごの中に商品を入れていった。小麦粉を手に取ったところで、アカギが不思議そうに首を傾げたのが視界の隅に見えた。
「なに作るんだ?」
「えっと、その、ケーキを……」
「ああ、それでこの買い物か」
「すみません……」
「……なんで謝んだよ。意味わかんねェ」
間髪を入れずに謝れば、呆れたと言わんばかりに溜息を吐かれて胸がつきりと痛む。乱暴にカゴを奪っていった太い腕から、逞しい背中へと視線を移動させて、穂香は未だに受け止めきれない現実を嘆いた。
盛り上がった肩や腕の筋肉も、すべてはあの化物と戦うためなのだろう。そんな人物とこうしてスーパーで買い物をしているなんて、到底信じられないことだった。
気を抜けば溜息ばかりが零れていく。そうすると、決まって彼は眉根を寄せる。鬱陶しそうに。弱い穂香を厭うように。
好かれていないのは分かっているが、好きで関わりあっているわけではない。むしろ関わらないでいられるのならそうしたかった。離れてほしいとは言えるはずもないのだけれど。
「――なァ。オイ。聞いてんのか」
「えっ? あ、す、すみません、あの……」
「お前さ、……やっぱいいわ。それより、アレはもう作んねェのか」
お菓子をねだって泣く子供が、母親にぴしゃりと叱りつけられているのが見えた。
「あれ、って?」
「なんつったけか、あの、ほら。プリンみてェな白いやつ」
杏仁豆腐かと思ったが、すぐに違うと首を振られた。なんだろう。プリンのような白いもの。アカギの口ぶりからして、以前に穂香が作ったことのあるものらしい。となれば、思い浮かぶのはあと一つしかない。