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迷いの欠片に光あれ *10
会議室のようなその部屋は、壁が薄い緑色をしていた。よく見れば、壁紙には小さな若葉が散りばめられている。堅苦しい雰囲気には少々愛らしすぎる壁紙だったが、「彼らの世界」の状況を思い出してはっとする。それほどまでに、彼らは緑に飢えているのだ。
コーヒーを楽しんでいたミーティアは、穂香達が椅子に着くなり「さっそくだけれど」と口火を切った。
「アナタ達には、言わなければならないことがたくさんあるの。大切なお話よ。――ハインケル博士、お願いできますかしら」
「え、あっ、あ、うん! あ、じゃなくて、はい……。ええと……」
小さな博士は慌ただしく資料を広げ、穂香達に示してきた。紙面に踊る文字は日本語でも英語でもないので、見せられてもさっぱり分からない。腰を浮かせて覗き込んでいた奏がそう告げると、ハインケルは叱られた子供のように肩を竦め、いそいそと資料を手元に回収していった。
鳥の巣頭の上に鳩を乗せた姿は、どこからどう見てもただの子供だ。くたくただった白衣は綺麗に洗濯されているが、伸ばされっぱなしの前髪は相変わらずだった。
俯きがちで自信のない喋り方。常におどおどとしていて周囲の目を気にする様子が、穂香には他人事とは思えない。
指先をすっぽりと覆い隠す白衣の袖をぎゅっと握り締め、ハインケルは長い前髪の隙間からちらりと奏を伺った。そのまま視線が穂香にも滑ってくる。
「あくまでも、予測、だけど。きみたちは、核(コア)と同調している可能性が、とても高い」
「同調って?」
奏の静かな問いにハインケルが息を呑み、後ろでナガトが身じろいだのが分かった。穂香達と同じく椅子を勧められた二人だったが、彼らはそれを断り、壁にもたれるようにして立ち続けている。
同調とはなんだろう。コアはとても恐ろしいものだと聞いている。それはつまり、とてつもなく恐ろしいことを意味しているのではないだろうか。
膝の上に置いた手が震えている。隣の奏はこんなにも落ち着いているのに、どうして自分は弱いのだろう。縋るようにスカートを掴み、穂香は唇を噛んだ。
「同調っていうのは、白色化植物が持つコアと同様のケミを持ち、ヴィラーグ現象を引き起こすことによって生じるものだ。そこには白色化植物が持つメトラが関係していると考えられ――」
「ちょ、ちょお待って! それじゃ分からん! もっと簡単に説明して!」
「え……?」
奏に遮られ、ハインケルは心底驚いた風に目を丸くさせていた。まるで、「これでも十分簡単なのに」とでも言いたげだ。
人が変わったように語り始めたハインケルの姿に、穂香は沈む心を隠しきれなかった。俯きがちで自信のない様子は、先ほどの彼にはまったく見られなかった。己の持つ知識に絶対的な自信がなければ、ああも淀みなく語れまい。それだけのものが、彼にはあるのだ。
――羨ましい。心からそう思う。
簡単な説明を乞われて、困り果てたハインケルが助けを求めるようにミーティアを見上げた。それを受けて、ミーティアが母のように慈愛に満ちた眼差しを彼に向ける。あまりにも優しい春のようなそれに、ハインケルが照れたように顔を俯かせた。
「簡単に言えば、同調はコアがターゲットに選んだ生体との間に起こるものなの。つまり、」
「あたしらがターゲットになったってこと?」
「イエス。その通りよ、お嬢ちゃん。それにしても、随分と落ち着いているのね。現実味がないのかしら?」
「それもあるけど、どっかのおにーさんに先に聞かされとったから。……ほの、大丈夫?」
「え……」
大丈夫なわけがない。
ミーティアがなにを言ったのか、奏がなにを知っているのか、知っていてどうして落ち着いていられるのか、なにもかもが理解できない。津波のように押し寄せてきた情報と感情に、どう対処していいのか分からない。
震える手を力強く握られて、そのあたたかさに胸が震えた。
ターゲットになった。――それは、どういうことなのだろう。
「このプレートでの進化は未知数なんだ。――その上で言う。きみたちは、選ばれた」
言いよどんでいたハインケルが、はっきりとそう言った。
「もうすでに、なんらかのマーキングがされていると言っていいでしょう。同調者は、コアが放つ電気信号と同様の信号を放つと言われているわ。アレは植物であって、そうではない。意思を持っているのよ。定められた以上、逃げられない」
「……どうやっても?」
「ええ。感染者は親を求めてやってくる。親は子に餌を与える。親の養分となり、子の餌ともなるそれは、アナタ達なのよ」
ひっと悲鳴が漏れた。ミーティアは穂香を一瞥したが、その妖艶な唇から、穂香を気遣う台詞が零れてくることはなかった。代わりに、同情に満ちた視線がハインケルから向けられる。同情なんていらない。そんなものよりも、確かな安全が欲しい。
奏に背中をさすられ、そのまま頭を抱かれた。優しい香り。優しい手つき。状況は奏も同じはずなのに、彼女はいつだって前を向く。彼女の頭で現状が理解できないはずはないのに、恐ろしいことなど聞いていないかのように振る舞った。