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「受験ノイローゼ? あんま無理しすぎたらあかんよ。ほのちゃん、うちらの中で一番模試の結果もよかったやん。ほのちゃんなら大丈夫やって。な? あとは気持ちの問題。ほのちゃんが一番実力あるんやから、自信持って!」
「……うん」
自信、なんて。
思ったところで口に出せない。自信なんて持ったことがない。そんなものがあるのは、自ら輝ける人達だけだ。まっすぐに自分の足で立って、恐れもせずに前を見据えて、自分の意見をちゃんと持っている人達だけに備わっている感情なのだ。自分ではなに一つ決められず、他人の言葉に流される穂香には最初から与えられていないものだ。
自分の席に戻ろうとした郁を引き止めようとして、結局言葉が出なかった。中途半端に伸ばした手が虚しい。喉の奥に引っかかった言葉を飲み込み、穂香は再び参考書に目を落とした。
――もしも植物から色がなくなったら、郁ちゃんなら、どう思う?
聞いてどうしようと言うのだ。郁はなにも知らない。話したところで信じてもらえないだろう。
あのときのナガトの、納得したような、けれどどこか諦めたような、そんな目を思い出して穂香は唇を噛んだ。どんな答えでもいいと言ったのは彼の方だ。なのにどうして、あんな顔をされなければならない。取り澄ましたような、まるでこちらが気づかないとでも思っているかのような、ほんの僅かな表情の変化。姉だったら気づかなかったかもしれない。だが、穂香は昔から、ネガティブな心の機微には敏感だった。
彼はどう答えて欲しかったのだろう。なにが正解だったのだろう。所詮、穂香には到底導き出せそうにない答えに違いない。
――白の植物が……、感染者が、きみらを襲うかもしれない。そのときのために、自己防衛の手段を覚えておいてね。大丈夫、すぐに助けに行くから。
穂香はただの高校生だ。運動神経は人並み以下で、緊急事態に適切な動きができる自信もない。それなのにどうして、彼らは自分を一人にするのだろう。白の植物を逃がしたのは彼らだ。その危険が迫ってくると分かっているのになぜ守ってくれない。なぜ、なにもできない非力な穂香がたった一人で怯えなければならないのだろう。
自分は姉とは違う。奏とは違うのだ。彼女のように強くなれない。彼女ならば一人でも平気だろう。だが、自分は一人ではなにもできない。
強く握った拳が白く変色しているのを見て、穂香は慌てて力を逃がした。折れ曲がってしまった参考書のページを伸ばし、休み時間の終了を知らせるチャイムを聞く。静かな教室に入ってきた世界史の教師は、プリントだけ配って教卓の前に座った。受験に必要な生徒達はプリントを見、質問しに行く。そうでない生徒達は思い思いの参考書を机の上に広げていた。
みんなでいるのに、結局は一人だ。
どうしようもない寂寥感に俯く。なにをいまさら。嘲笑う声が聞こえた。それは自分の頭の中から発せられたものだとすぐに気がついた。なにをいまさら。あのときからずっと独りのくせに。穂香の声で、普段の穂香よりも尖った声がくすくす笑う。
「……どうして」
ほとんど吐息のような声で呟いた。
「もうやだ……」
誰にも期待されない。誰も守ってくれない。誰が望む答えも導き出せない。
ナガトもアカギも、結局は穂香のことなどどうでもいいのだ。奏ばかり気にかけて、大切なことはすべて奏に話して、扱いにくい穂香は全部後回し。
もし白の植物が襲ってきたところで、姉と穂香なら彼らは絶対に姉を助けるのだろう。世間的にも、きっとその方がいい。奏の方が生き残る価値がある。どれだけ穂香が怯えて泣いていても、彼女はそのとき、前を向いて立ち向かっていく人なのだから。
どうして彼女の妹になってしまったのだろう。どうしてあの家にいるのだろう。どうせ独りなのだから、最初から余計なことはしないでほしかった。
ポケットの中で携帯が震えた。一瞬びくりとして、静かに画面を覗く。ほぼ自習とはいえ、授業中だからそっとだ。忍ぶように確認した携帯の画面には、一通のメールが表示されていた。差出人はアカギとある。すっと身体の芯が冷えていくのを自覚した。震える指でボタンを押す。
メールの本文には、絵文字も顔文字もない、シンプルな文章が一行だけ。
『すぐに行くから待ってろ』
状況が理解できない。
穂香は浮かんでくる涙をこらえるのに、全神経を集中させなければならなかった。
【8話*end】