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「ここでその名を出しますか」
「だって、生まれたときから持ってる名ですものぉ」
マミヤ・リネット。
その名に、隊員が目に見えて怯んだ。あれほど気炎を吐いていた議員達も、今や唖然として彼女の後姿を見送るしかできていない。圧倒された人々が、マミヤの進む道から自然と脇に逸れていく。
海を割るように、道ができた。
やがて彼女が外に出て扉が閉まるまで、会議室内は沈黙が部屋の主となって占拠していた。声を封じられでもしたかのように、誰一人としてなにも言葉を発さなかった。
痛む頬を押さえながらムサシは己の席に座り直し――、机の上を見て、小さな子どものようにけらけらと笑った。
「まったくもう、困ったお姫様ですねぇ」
マミヤがこれからどうするつもりか、あとでじっくり問わねばなるまい。王宮に引っ込むつもりだろうか。いや、それはないだろう。すぐに自答して、「それ」を見つめる。
彼女はテールベルト空軍の軍服を身に纏っていた。着替える機会も時間も十分にあったはずだ。それなのにあの服でここに乗り込んできたというのなら、彼女は逃げも隠れもするつもりはないのだろう。
わざわざ宣戦布告しに来たくらいだ。きっと、自分の部屋に帰っている。
「さて、皆さんどうなさいますか? どうやら本物のお姫様に手を出してしまったようですけれど」
机に撒かれた土の上。
そこには、翡翠のように鮮やかな色の薔薇が咲き誇っていた。
* * *
「あ、あの……、アカギさん? 大丈夫、ですか?」
おずおずと声をかけられて、アカギはようやく沈殿させていた思考を掬い上げた。
握り締めていた携帯電話は穂香のものだ。ピンク色のストラップが付けられた愛らしいそれは、アカギの手には少しおさまりが悪い。
それでもしばらくは借り受けなければならず、穂香の了承を得て自らの胸ポケットに仕舞い込んだ。ストラップがはみ出さないように気をつけたが、大きな花の飾りがどうしても収まらず、胸にぶら下げる結果になった。どう考えても似合わない。
しかし、それを真っ先に笑いそうな男はこの場にはいなかった。彼は考えなしに艦を飛び出して、奏のもとへ文字通り飛んで行ったからだ。
穂香の機転によってソウヤと連絡がついたのは、運が良かったとしか言いようがない。彼らがどういう事情でか、このプレートに来ていたことも幸いした。そうでなければ、自分達はともかく、あの二人が無事でいる可能性は限りなく低くなっていただろう。
理由を考えるのはあとでいい。とにかく今は、現状とこれからのことを考えるのに全力を注がなければならない。
「とりあえず、連絡はついた。奏もナガトもこれで大丈夫だ。俺達の方にも救助が向かってるってよ」
「よかった……」
はっきりと声に滲んだ安堵の息に、アカギもつられて溜息を吐いた。組み合わせた小さな手が小刻みに震えている。俯いた垂れ目がちな瞳には、うっすらと涙の膜が張っていた。助かると聞いて、よほど安心したのだろう。そのまま泣くと思っていたのに、穂香は必死に鼻を啜って涙を誤魔化している様子だった。
すぐに泣く女だと思っていたのに、どうしたことだろう。ますます俯いて丸くなる背中は、驚くほどに薄い。
「……今まで散々泣いてたろ。今更我慢すんな」
先ほど勢い余って引き寄せた身体は、翼でも生えているかのように軽かった。滅茶苦茶に掻き回した頭を、今度は最小限の力で優しく撫でるように叩く。自分とは大違いの細く柔らかい髪が、指の間から擦り抜けていく。
優しく触れれば触れるほど、ますます穂香は俯いてしまった。身体が前のめりに傾き、小さな頭がアカギの胸に落ちてくる。避けることもできずに受け止めてしまったが、一瞬どうすればいいのか分からずに動きがぎこちなくなった。
胸元からすすり泣く声が聞こえてきたから、余計に困惑は加速する。
落ち着かない。泣いている女を慰めるのは苦手だ。そういう役割はナガトの方が適任で、でなければソウヤかスズヤ辺りがこなせばいいことだ。少なくともアカギに回ってくる役ではない。それなのに、穂香と知り合ってからはそんな役割ばかりを押しつけられている。
こちらの事情なんてお構いなしに突っかかってくる奏に、怯えて泣いてばかりいる穂香。どちらにせよ、相手をするのが苦手なタイプの女だった。
静かに泣きじゃくる声が、心臓の上に重なる。――ああもう、落ち着かない。
「心配すんな、すぐに助けが来る。さっきコールしたソウヤ一尉ってのは、空軍でも相当腕の立つ人だ。飛行技術はもちろん、射撃の腕も軍内では五本の指に入る。それこそアレだ、ヒーローみたいな人なんだよ」
なにか話していないと落ち着かず、饒舌になったアカギはそんなことを語っていた。ソウヤが航空戦競技会で三年連続一位を取っていたこと。ある年から順位は変わったが、射撃大会では堂々の優勝を果たしたこと。テールベルトでも有名な軍人で、「強くてかっこいい」からと、民間人からも人気があるということ。
まるで、ヒーローのようだと言われているということ。
胸に頭を預けていた穂香が、少しだけ身じろいだ。なにかを言ったようだったが聞き取れない。「あ?」首を曲げて顔を近づけると、今度は穂香の方から耳元に唇を寄せてきた。
「アカギさんと、いっしょですね」
「……は?」
「ヒーローみたいな人、なんですよね? その人……」
「え、あ、ああ、まァ……」
確かにそう言った。世間がそう言っているからだ。アカギの言葉ではない。そう言った方が穂香が安心するかと思って口にした。それだけだ。
だのに、彼女は「アカギと一緒」だと言った。意味が分からない。
「アカギさんも、助けてくれました」
至近距離で見上げてくる潤んだ瞳に、座りの悪さを覚えてアカギはたじろいだ。反射的に身体を離したが、細い肩を支える手を離し忘れたせいで穂香の頭は胸元に収まったままだ。
穂香の方から離れていくかと思ったのに、どういうわけか彼女は寄り添ったまま動こうとしない。はらはらと涙を零しながら、花びらが散るようにむず痒い言葉を落としていく。