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 広がる枝葉が進行の邪魔をする。簡易飛行樹を畳み、軍人の瞬発力で地を蹴り進む。この先に奏がいる。それだけを頼りに、白に侵された山の中を駆け抜ける。
 走って、走って、そうして目の前が拓けたそのとき、ナガトの鼓膜を悲痛な叫びが突き刺した。

「ナガトーーーーーー!!」
「――奏っ!?」

 呼ばれている。
 木々の拓けたその場所に、退路を断たれた奏が見えた。――間に合わない。それでもナガトは薬銃を構えた。この距離から撃つのでは、届くかどうかも怪しい。それでも。それでも、希望はある。
 耳をつんざくような破裂音が空気を割る。
 衝撃の大きなその発砲音は、ナガトの構える薬銃から放たれたものではなかったけれど。

「え……」

 ひらり、と。
 白い翼が舞い降りてきた。
 ちょうどナガトと奏の中間に降りてきたそれは、瞬時に姿を変えて人の姿となった。――違う。塗装のされていない簡易飛行樹が畳まれただけだ。
 呆然と見つめた先のその人は、大型のネコ科動物を思わせるしなやかな動作で、長く重たい薬銃を軽々と肩に担ぐ。拓けた大地に降り注ぐ陽光に照らされて、ゴーグルがきらりと輝いた。

「――おっせーぞ、“王子サマ”」

 無造作に剥ぎ取られた無骨なゴーグルの下から、空が覗いた。それもただの空の色ではない。雲の上に広がる、深く澄んだ空の色だ。
 あの色の持ち主を、ナガトはよく知っている。
 まるで碧落の欠片のようなそれを。
 人を食ったような意地悪な笑みも、自信に満ち溢れたその声も。
 けれど自分を流し見るその人は、ここにはいないはずの人だった。

「そうや、いちい……?」

 茫々とした思考では、自分がそう口走っていたことすら気づかない。
 ナガトと同じく呆然と座り込んでいる奏が、ソウヤを見上げて口を開けていた。

「大丈夫か、姉ちゃん。怪我は?」

 手を差し伸べられた奏は、目を瞠ったままぴくりとも動かない。この事態を呑み込めていないようだった。一足先に頭を切り替えたナガトが、彼らに駆け寄ろうとしてまたしても足を止める。瞬時に構えた薬銃が口を挟むまでもなく、事態は収束した。
 身体に響く発砲音は、対高レベル感染者用の薬銃のものだ。反動は最小限に抑えられているとはいえ、片手で扱うのは困難を極める。
 奏の腕を掴んで立たせて己の背に庇った上で、ソウヤは空いた方の手で伏していた感染者に弾丸を撃ち込んだ。立て続けに三発。そこに過度な緊迫感などなく、うっすらと笑みを浮かべる余裕すら見えた。

「レベルDだ、完全駆除しねぇと話にならねぇよ。これくらいお前でもできんだろ、やっとけ」
「すみませ……、って、じゃなくて!」

 核を破壊され、完全に息絶えた感染者から血溜まりが広がっていく。奏を背に庇ったのはこのためか。そのことに気がついた途端、圧倒的なまでの実力の差に埋まりたくなった。この状況で、この人はそこまで気が回せるのか。自分は現状を把握するのがやっとだというのに。
 毛先にだけ癖のついた焦げ茶の髪を風に遊ばせ、ソウヤは背中の奏に首を巡らせて声をかけた。たったそれだけの仕草が様になる。

「もう大丈夫だ、近くに感染者の気配はねぇよ。でも、ちょっとえぐいもんあるから目ぇ閉じてろ。ナガトが抱えて運んでやるから心配すんな」
「あ、は、ハイ……」
「よく頑張ったな、上等だ」

 切れ長の青い目を和らげて笑い、大きな手で頭を撫でるのだからたまったものではない。あわやという窮地を救われた奏は、ようやくそのことが理解できてきたのだろう。涙の痕が残る頬をほんのりと赤らめ、熱に浮かされたような表情でソウヤを見上げている。
 顎で「早く来い」と告げられて、ナガトははっとして二人に駆け寄った。息絶えた感染者の体液を踏まないよう気をつける。
 ソウヤの背に隠れるようにしていた奏の姿を間近で見ると、その痛ましさに胸が突かれた。髪は嵐のあとのように乱れ、化粧も汗と涙でよれている。真っ赤に充血した目も、鼻も、切り傷の滲む頬も、身体中についた枯葉や土汚れも、そのどれもが彼女が生きようとした証だった。
 泣いていたことが丸分かりの瞳と目が合った瞬間、ナガトはソウヤがいるにもかかわらず奏の身体を強く抱き締めていた。腕の中で驚いたような声が漏れる。知ったことか。掻き抱いた華奢な身体は心配になるほど薄く、柔らかい。小さな頭をしっかりと抱え、汗とシャンプーの混ざった香りをめいっぱい吸い込んだ。

「ちょ、ちょっと! ナガト、あんたなんでここにおんの? 閉じ込められてるんとちゃうかったん!?」
「助けに来た」
「は? だって、」
「お前が心配だから、助けに来た」

 強く抱き締めればすぐにでも折れてしまいそうな、こんな小さな身体でこの子はここまで頑張ったのか。弱々しく抵抗を見せる腕は、未だに震えているというのに。
 どれほど怖かったのだろう。どれほど不安だったのだろう。助けに行くと勇む心は事実だろうが、感じた恐ろしさもまた事実に違いない。
 ナガトを呼ぶあの声が、耳の奥から消えてくれない。
 もし、ソウヤがいなかったら。それを考えるとぞっとする。自分は間に合っていたのだろうか。この手で彼女を助けることができたのだろうか。もし、目の前で失っていたら。――そんな恐ろしいことは、考えたくもなかった。

「ナガトー、そういうのはあとにしろ。とりあえず艦に戻るぞ」

 呆れたような声に促され、はっとしてナガトは奏を解放した。淡々と感染者の処理をするソウヤの背に、今度は疑問が浮かび上がる。


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