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『君がハインケル博士ですか? 初めまして。お若いのにすごいですねぇ』
『あなたは……』

 初めて会ったとき、彼は今よりも少しばかり幼い見た目の頃だった。小さな鳥の巣頭は柔らかな金色で、長い前髪から覗く青い瞳が印象的だ。天使のような愛らしい顔をしているというのに、彼はその顔に恐怖と不安ばかりを貼りつけていた。
 膝を折って目線の高さを合わせれば、彼は怯えつつも視線を絡めてきた。震える身体に、いらぬ恐怖を与えぬように微笑んだ。

『ありがとうございます。君が、私を救ってくれる人ですね』

 握った手はひどく小さく、頼りなかった。弱々しく握り返してきたその手は、ムサシにとって生命線にも等しいものだ。この小さな子供が開発した新薬によって、「劣化」しやすいムサシの身体はその危機を遅らせることができる。
 たどたどしく新薬の効果を説明したハインケルは、不安を宿しつつも好奇心を隠せない様子でムサシをじっと見つめ、言った。

『あなたの命をぼくが預かってもいいんですか』

 あのときのことを、彼は覚えているだろうか。



 無駄に広いと感じる基地司令室で、ムサシは立派な革張りの椅子を遊具のようにくるくると回していた。誰もその子供じみた奇行を咎める者はおらず、投げられる視線の煩わしさもさほどない。彼――便宜上、“彼”と表現される――は、毛先を緑に染めた白髪を指に巻きつけ、机の上に広げていた資料にもう片方の手を伸ばした。数枚捲ると、見慣れた顔写真が添付された資料に行きあたる。
 くしゃくしゃの金髪に、くたびれただぼだぼの白衣。傍にはいつも鳩がいる、小さな少年にしか見えない若き天才科学者。それはテールベルトの鬼門だ。

「ハインケルくんがどこまでやってくれるか、楽しみですねぇ」
「……しかし、なぜ今さらあの男を切る? どうせ問題ばかり引き起こす男だ、もっと早く切っておけばよかったものを」

 吐き捨てるように言った緑花院に籍を置く老人が、ゴミでも見るような眼差しをムサシに向ける。

「そう簡単には切れません。ハインケルくんはデータそのものなんですよ、大臣」
「データそのもの? どういうことだ、説明しろ」

 相変わらず高圧的な物言いだ。完璧な笑みで嘲りを押し隠し、ムサシは大臣へ向き直った。向かいのヤマトは特に興味がないような様子で、出されたコーヒーに口をつけている。
 テールベルトにとって吉凶どちらにもなりうる存在のハインケルが持つ真実は、限られた者しか知りえない。それを知っている人物の一人がムサシだ。その説明を求められ、ムサシは微笑を浮かべつつ望まれるままに静かに語り始めた。
 ハインケルは、生まれながらにして天才だった。なにもかもが普通の子供とは違い、六歳ですでに研究機関で立派な功績を上げていた。幼さと極端に他人を恐れる性格も関係し、彼は研究室に籠もりっぱなしで表に出てくることはほとんどなかった。同じ研究機関の人間だろうと、ハインケルの姿を直接見た者はそう多くない。
 彼は幼い頃からありとあらゆる研究に従事し、そして数年をかけてある新薬を開発した。それは誰もが望む、夢のような薬だった。――成功していれば。

「迷わず自分で試しちゃうあたり、怖いですよねぇ」

 ハインケルが生み出した薬は、白色化植物による神経刺激物質取り込み阻害薬――白の恐怖に怯える人々の希望となりうるものだ。核を抑え込み、たとえ寄生されても発症を食い止めることができる。マウスやラットの段階では成功と言えた。ならば、人間は。
 新薬として世に出すには、必ず被験者が必要になってくる。データがなければ使えない。だが、この薬の効果を確かめるためには、感染しなければならなかった。感染者を使えばいいと誰もが口を揃えて言ったが、ハインケルはそれでは駄目だと首を振った。

「あの子の生み出した薬は、これから生じる悲劇の種を芽吹かせないためのものだったんです」

 すでに感染し、発症している患者では意味がない。感染者を治すための薬ではなく、言うなれば予防薬だ。飲んだ上で、感染する。核を宿す。その状態になって初めて、本当に発症しないか、効果があるのかが確認できる。
 誰も被験者になりたがらなかった。当然だろう。倫理的な観点から見ても、健常人を被験者にして感染のハイリスクを負わせることはできない。審査に出せば時間がかかる。魔法のような薬が今目の前にあるのに、世に出すことができないかもしれない。
 ――だから、彼は“試した”のだ。

「あまりに危険だと、当然彼のチームは全員が反対しました。優秀な科学者を失うのは国にとっても大きな損害ですから。けれどハインケルくんはためらわなかった。不思議ですよね、あれほど臆病な子なのに」
「し、しかし……、まさか、そんな薬が本当に……? あれが生きているということは、成功したのか! その薬はどこにある、なぜ早くわしらに配らんのだ!」
「その薬が成功とは言えなかったからです」

 にこりと笑ったムサシの鼻先で、大臣は思い切り眉根を寄せた。

「薬は確かに核の発芽を抑え込み、発症を防いだ。ですが、あの子の細胞は異常をきたした。まあ、もともと細胞の成長を抑制し、発芽を遅らせる作用のものだったそうですから、予想の範疇と言えばそうなんですが。ただ、すこーし副作用が強く出過ぎたみたいですね。彼の細胞は若返りすぎた」
「どういうことだ?」
「子供に戻ったんですよ。彼は当時十六歳。西の地域出身ですから、今よりずっと見た目も大人びていました。それが薬の影響で今のような姿になったんです。そして、彼の危惧していた通り、記憶にも障害が現れた」

 ハインケルが唯一心配していたのは、己に生じる記憶障害だった。この薬を開発したことすら忘れたのではなんの意味もない。しかし幸か不幸か、彼は天才科学者だった。予想できるリスクを潰す手はすでに打っていた。それがどんなものなのか、ムサシにきちんと説明した上で。
 小さくなった彼は、そのことすら綺麗さっぱり忘れてしまっていたけれど。

「あまり表立って出てくるような子ではありませんでしたから、姿を知っている者も少なかったですしね。ごく限られた人間に緘口令を敷けば事足りました。記憶の欠落も彼の能力そのものには影響しない程度のものでしたから、なんの問題もありませんでしたし。……六年前のあの日から、経過観察が始まったんですよ」

 ヤマトがカップを置き、携帯端末を確認した。なにか連絡が入ったのだろう。大臣はムサシをまじまじと見つめ、気味が悪いと言いたげに唇を歪めている。
 まだ理解しきれていないのだろうか。ムサシは溜息を押し殺し、代わりに微笑を浮かべて言った。


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