憂う刻 [ 22/22 ]

憂う刻


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「お前には、告げておかねばなるまいて」

 朱に塗られた鳥居の上、片胡坐を掻いた天狐月乃女は静かにそんなことを切り出した。神酒に濡れた唇が、闇の中で赤く輝いている。
 静謐なこの場所に、今ある気配は月乃女とツキシロの二つだけだ。鳥一羽、虫一匹さえ追い出した結界の中で、二匹の狐は凍てついた冬の夜に白い吐息を吐いた。
 母親譲りの美しい顔立ちは、人の子として見ればまだ幼い。肩を過ぎた白髪は艶を増し始め、すでに銀にも見紛うほどの輝きを持っている。身なりこそ子どものそれだが、ツキシロは天狐族の長の血を色濃く引く「月」を宿した狐だった。小さな頤(おとがい)に手をかけ、月乃女は息子の顔を覗き込む。

「月黎(げつれい)の血を引く限り、お前もあれに目をつけられるだろう。そして、月落としであるユキシロも」

 ――月落とし。
 何度聞いても胃の腑がぞわりとする言葉に、ツキシロは知らぬ間に眉根を寄せていた。この美しい母の腹の中で、ツキシロは同時に宿った片割れのすべてを奪った。奪うだけ奪って命だけを残し、この世に生まれ落ちた。いっそ命すら食ろうていたらと思ったのも、一度や二度ではない。
 力を持たない、脆弱な狐。天狐族を名乗ることすらおこがましい、ただのあやかし。
 それでも、母は片割れに名を授けた。ツキシロよりも先に片割れを抱き、彼女が最も愛する雪の名を与えた。片割れは知らない記憶だ。力を持つツキシロだけが、生まれ落ちて間もないあのときのことを記憶している。
 しかし今は、そのことに構っている場合ではない。

「あれ、とは」
「――紫閃(しせん)」

 金毛九尾の狐、紫閃。鳴神の異名を持つ狐は、凄まじい力を持ちながらも神には程遠い存在だ。溢れ出る妖気が草木を枯らし、水を腐らせる。痩せこけた九尾の狐が月乃女を追っていることは、ツキシロだけではなくユキシロも知っていることだった。
 あれが危険だということは十分に理解している。なにを今さら――。そんな思いが顔に出ていたのだろう。月乃女は喉の奥でくつりと笑い、闇夜に杯を放り投げた。酒が舞う。

「ツキシロ、お前は確かに我の血を引く。まごうことなき天狐よ。なれど、今のお前ではあれにすら敵わぬだろうて。気高き天狐が九尾風情にしてやられるなど笑止千万。あってはならぬ」
「……それは承知している」
「あれがお前を食らい我が血を蓄えたとなれば、我とてあれを消し去るのは至難の業よ。よいか、ツキシロ。――血に甘えるな。天狐の名を穢すことは許さぬ。九尾風情に狩られてみよ。その魂、千に割いて犬の餌にすると知れ」

 闇の中で光る金の双眸がまっすぐにツキシロを射抜く。そこにぬくもりなどは一切存在しない。
 親子の情よりも、種族の誇りを優先しなければならない。ツキシロはそれを承知している。月を継いだその日から、もうずっと。
 月乃女は静かに空を仰ぎ、あまりに美しい銀の髪を風に遊ばせた。

「力を得よ。さもなくば、不要だ」

 力なき片割れは庇護するくせにか。
 声には出さず、冷ややかに見つめる。真珠を練り込んだような純白の衣が、高まる気を受けて軽く靡いた。
 神気と妖気の入り混じった独特の気は、今のツキシロ特有のものだ。この尾が四尾に変わるとき、放つ気はすべて神気に塗り替えられる。
 胸の内に巣食う闇の正体など、微塵も興味がない。名など不要だ。名付けたところで、それが変わるとは思えない。
 月乃女は斬りつけるようなツキシロの視線を受けながらも、ただ静かに嫣然としてそこに佇んでいた。
 空気が揺れる。音が掻き消える。どんな存在も、彼らを邪魔することは許されない。

「どうした。かように無様な気を放つとは」
「……力なき者は、我ら天狐族に不要か」
「ああ、そうさな」
「なれば、弱きは罪か」
「左様。今更問うほどのことでもあるまい」

 なれば。
 ――なれば、あれはどうなる。

「不要と、罪と言うなれば。天狐族が月を宿す者として、われが弱きを屠ってもよいか」

 指先に神気と妖気が駆け下りる。青く輝く狐火は、やがて赤く燃え上がり、闇に消えた。気に煽られ、髪がたなびく。
 今や瞳は、冷たい熱を帯びているのだろう。眼前の天狐は、天狐族の長であり母だ。
 なれど彼女は、ツキシロを子として見ない。さすればこちらも、次期長として振る舞うまでだ。

「我ら天狐族に、同族殺しを禁ずる掟はない」
「なれば」
「それすなわち、我がお前を喰ろうたとて何者にも咎められぬ」

 ――それは一瞬だった。
 一気に苛烈な神気が爆発したと思った瞬間、首に細い指が絡みついていた。鋭い爪が肉に食い込み、血を呼ぶ。凄まじい力に呼吸が妨げられた。
 もがく手足は容易に封じられる。首を掴まれたまま持ち上げられ、足が宙に浮いた。「ぐ、ぁっ」ぎりぎりと締め付けてくる腕に爪を立てるも、月乃女は微塵も力を緩めない。
 目の前が白く濁っていく。傷ついた首筋から流れる血が、そこに突き刺さる爪が、ツキシロから力を奪う。
 くらりと世界が揺れた刹那、身体が弾けた鳳仙花の種のように夜を滑った。ぶんっと勢いよく放り出されたのだ。
 は、と荒く息を吸い、投げ出された身体が地面に叩きつけられる寸前で身を持ち直した。無様に転がることだけは避けられたが、綺麗な着地とは言い難い。砂利の食い込んだ手のひらには血が滲んでいる。

「ツキシロ、お前には無理だ」
「な、」
「お前にあれは殺せぬ」
「なぜだ! われは“月代”、月落としを屠るなどあまりにも容易い! 母上はそこまでわれを侮るか!」
「できぬ」

 くつりと笑い、月乃女は膝をつくツキシロの髪を鷲掴んだ。強く引かれ、頭を無理に持ち上げられる。
 比類なき神気が肌を焼く。
 その金の双眸に、地を這う己の姿が映って見えた。

「我の腹にてあれを喰わなんだのが、お前の運の尽きよ。今一度言う。ツキシロ、お前にあれは殺せぬ」
「なにゆえっ、」
「月光では、雪は溶かせぬだろうて」

 冷え冷えとした月の明かりが、天狐を照らす。
 偉大なる月黎の血を持ちながら、月の名を冠することのできない天狐族の名折れを、月落としと呼ぶ。生まれた子が双子であれば、どちらかは必ず月落としだ。
 力を得たのはツキシロだった。月を得たのもツキシロだった。だのに片割れは、いつもツキシロが欲する「唯一」を奪う。
 ツキシロが抱く激情にも気づかぬままに。
 母である月乃女も、双子だった。母の片割れもまた、雪の名だった。
 しんしんと降り積もる穢れを知らぬ雪は、陽光でなければ溶かせない。冷えた月光では土台無理な話だと、月乃女は言う。

「われにはできぬと、そう言うか」
「ああ」

 首筋に手をやれば、赤い血が指先を濡らした。思ったより出血しているらしい。元の姿に戻れば、純白の被毛は赤く染まっているだろう。
 月乃女の手が、髪を離して肩に触れた。そのまま身を屈めた彼女の熱い舌が、ぬるりと首筋を這う。血を舐めとると同時に傷口に神気が注がれ、傷が癒えるのを感じた。
 それに合わせて、昂ぶっていた気がゆっくりと静まっていく。

「重ねて言うておく。敵は魂を分けた片割れではなく、あの忌々しい九尾と知れ。後れを取ることは許されぬ。ーー雪を奪われ月が落ちるなどとあっては、天狐の恥ぞ」

 ゆえ、今でもなお、月乃女の目の届く最も安全な場所で「雪は降る」。力なき天狐崩れが生き永らえるためには、絶対の庇護が必要だ。それを相手が望むと、望まざると。

「……守れと言うか」
「我は命じぬ。なれどツキシロ。お前、もとよりそのつもりでおるのであろうに」

 嘲るように笑った月乃女の吐息が、首筋の太い血管の上にかかった。離れた口元が赤く濡れている。
 血の紅を差した唇をきゅうとしならせ、月乃女は冷ややかに言った。

「できもせんことを零す暇があるのなら、はよう力を得よ。お前がこの天狐月乃女の子なれば」



 月夜の晩に、雪は降る。
 月光を受けて雪は輝く。
 溶けることなく、いつまでも。



(20140315)

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