恋予備軍否定心理。






(♀夢/英雄学/爆豪勝己/2017年ごろに書いたもの)





恋予備軍否定心理

雄英転校、轟と仲良くなった後



恋予備軍否定心理


メグルヒ

まるで海に竜巻が起こってるみたいだった。水面は荒れ狂って、飛沫は激しく飛ぶ。界隈の生き物は、人も大船も魚も、この竜巻に為す術なく飲まれ水に巻き込まれている。俯瞰して見るその情景は、まるで塵が風に煽られるような自然の摂理に思える。

自然。これが。
◎は吐き捨てる。こんなもの自然ではない。苦々しくそう思う。自分の心に巻き起こっているこの騒然とした有様に、否定したい気持ちしか持てなかった。
嘲笑は足掻くようだった。

大海を前に、些細な生き物は抗う術を持てない。しかしこんなものはきっと、いつか終わる一過性の気紛れだ。きっと慣れないことが続いたから平常心を忘れているんだ。立っている場所が変われば、重心をかけるバランスも見えるものも変わる。生活の環境も同じことだ。慣れてしまえば、きっと全部が元通りになる。だから大丈夫。そう言い訳を続ける。

ふと自覚したことには納得したくなかったし、認めたくもなかった。

『別に面白い話してるわけじゃねえのに、爆豪の話してっ時よく笑う』

轟くんのせいだ、と心の中で八つ当たりした。


(違う)


私が勝己に抱いてるのは、そんな感情じゃない。
絶対に。








食堂で食べる気が起きなかった。

「あ」

「いつもここなの」
「食堂行きたくねえ時はな」
「混んでるものね」

「お前なんで今日一人なんだよ」
「人と話す気分じゃなくて」
「俺はいいんかよ」
「うん」

元気ねえな。

「おい、髪」

びく

身を引く。

「何」
「…虫止まってたんだよ」
「えっ」
「もういねえわ」

「お前」
「何」
「………なんでもねえ」


「」





幼馴染でも、兄妹のように育っても、どんなに気を許していても…
所詮、他人だ。







私と勝己は幼馴染。兄弟のようなもの。それが不変であることを私は望んでいる。
それなのに、おかしい。

今まで平気だったのに。




触れられると、熱くなる。


先日のことは誉めてほしい。勝己に髪を触れられた後、顔の温度が上がるのを感じた。咄嗟に個性を発動させて顔の温度を平熱まで下げた。そんな芸当ができた自分に驚いたくらいだ。


勝己に触れられると、制御が思うようにいかないことがよくあるのに。

(…あれ)

それ、って 。

そんな前から、私は勝己をそういう目で見ていたの。


違う。


嫌だ。嫌だ。嫌だ。
恋愛なんて不純物だ。愚かだ。理性とは無縁の感情。
好きだの嫉妬だの勝手な欲求で人の自由を拘束しようとする。傲慢だ。そうなりたくない。勝己とずっと今のままでいたい。勝己はずっとヒーローでいてほしい。恋愛なんて汚い。身勝手で押し付けがましくて醜い。嫌だ。
私はそんなものを勝己に向けてしまっている。
今まであしらっていた女の子たちと同じ感情を。

嫌だ。こんな自分これ以上知りたくない。
無くしたい。無くさなきゃ。

(そう思うたびに、認めざるを得なくなっていく)






ボツ
「何?」
『入れろ』
「…ちょっと待ってて」


家→図書室に変更

これは澱だ。
吐き出さなくてはいけない。さもなくば僕はこの澱に呑まれて自我を失ってしまう。

「………」

コツ、とシャーペンの先をノートに落とす。文字の次にある白紙に、続く文字はない。

書く話はどれもこれも、喪失感が伴うものになってしまう。己の感情を自覚しても恋愛を書く気は起きなかった。元より書こうとも思わないが、書こうとしたところで明確なイメージが湧かずに一文字すら表現できる気がしない。辞書が語る恋愛の定義の方がよっぽど想像力を掻き立てられる。幼馴染への恋なんて、本の中では明るくてとろけるような恋愛なのかもしれない。だけど現実は。

はあ。

机の上で組んだ手に額を載せて項垂れる。こういう時、優れた作家ならすべてを文字に起こす力があるのだろう。そうできたらどんなにいいか。
作品にしてしまえば、それはきっともう自分自身の感情ではなくなるのだ。
書きたいのに何も浮かばないなんて、ひどく乏しい想像力だ。悲しくなる。

「おい」

視界の中に影が入ると共に声が降る。影がさした時から誰かなんて想像がついていたが、その声で誰だか確信した。

のろのろと目を上げるとやはり勝己がいて、不機嫌そうに◎を見下ろしている。勝己が不機嫌になる理由には察しがついていた。わかってる。勝己がヘソを曲げるようなことをしている自覚が◎にはあった。
だけど、◎は何も知らないような顔で「何?」と微笑んだ。話しながら、まるでクラスメイトに対して一線を置いている時と同じようだと自覚した。心の中にどろりと自己嫌悪が流れる。

こんなのは違う。いつもと同じ朗らかな表情の中で、◎はそう思った。

勝己はその◎の態度にまたぴくと瞼を痙攣させた。イライラが蔓延している自分の胸に、またイラつきの種が落ちたのがわかる。しかし図書室にいるという自覚はあり、声を荒げることは理性で抑えつけた。眉間を強く寄せたまま、短く口を開く。

「ツラ貸せ」

「…うん」

◎が答えると、勝己は先に背を向けて図書室から出た。その背中を見て、怒ってるなと思った。後を追って図書室を出ると、勝己は少し先で◎が出て来るのを待っていた。◎の姿を認めると勝己はまた歩き出す。数メートル離れたまま、◎は勝己についていく。その間、何人かの生徒を通り過ぎたが、二人が同じ方向に進んでいることに気付いている者はいないようだった。

周りに誰もいなくなっていた頃に、勝己は立ち止まった。校舎とも寮とも離れた、どこでもない道だ。バスが走れるような道路は通っているので、敷地内のどこかの施設に行くための道なのかもしれない。周りに人の声はない。
◎は勝己に歩を進めて、会話しやすい距離まで近付く。だけど、いつもどれくらいの距離で話していたのかは忘れてしまった。一メートル半くらい開いた距離は記憶より遠く感じたが、この距離を詰めてしまうと、極めて不本意な感情で胸が溢れてしまいそうだと思った。勝己と近くにいることで動悸がしたら、この胸の内を否定できなくなる気がして、これ以上の距離を踏み込めなかった。
◎は何も言わず、勝己を見ないまま、勝己が話すのを待った。◎の中で、心の内については口を閉ざしたいという意思があった。


その様子に勝己は、真綿で首を締められているような心地を感じた。


これまで自分たちの間には何もなかった。容易くお互いに手を伸ばすことができて、何も考えないまま触れることができた。声をかけることも、気安かった。
なのに、今のこれはなんだよ、と不快に思う。

今の自分たちの間には膜がある。薄く伸ばした綿で作ったカーテンにでも包まれているように、◎の姿は白くぼやけて遠くに見える。手を伸ばそうとしても綿が邪魔で触れられない。邪魔だ。そしてこの膜は◎が張っているのだ。

実際、物理的に見ようと思えばはっきりと◎を見れるし、この手で掴もうとすればその肩に触れることも簡単だ。だけど精神的な部分でそう感じるのだ。触れようとしても触れさせようとしない。触れるつもりもないのに隠されている。そんな◎の態度に勝己はイラついた。

「てめぇ最近変だぞ」

「そう?」

◎の声はいつも通りだ。だけどそれは二人きりの時に発する声ではない。踏み込ませない警戒心の現れが、その朗らかで社交的な声に出ていた。◎は学校仕様の振る舞いを継続している。ここには勝己以外に誰もいないのに。
味わわされてる疎外感と苛立ちを無理矢理腹の中に収めながら、勝己は努めて冷静さを保った姿勢で続けた。

「俺のこと避けてやがるよな」

「そうかしら」

「こっち見ろや!」

◎の態度は相変わらずで、抑えきれずつい語気が荒れた。勝己を見ようとしない◎の腕を引き、強制的に体を向かい合わせた。◎はよろけて、自分の腕を握る勝己の手を咄嗟に掴んで体勢を支えた。不可抗力ながらも触れられたことに、ほんの僅かながらに意識が向く。単純なことだ。
このところ◎が勝己をいないものとしていることに、勝己の胸は騒ついていた。それが少しだけ落ち着く。
しかし勝己の表情の険しさは未だ継続されているままで、◎が勝己を見ないことも変わらなかった。なんでだよ、と思う。ムカついてんのは俺だぞ、と。(轟)

「妙に距離作りやがって、気持ち悪りぃんだよ」

「…勝己にはなんでもわかるのね」

ふ、と息を漏らすように◎が静かに言う。

笑ったつもりだったが、いつも通りにできたかわからない。◎が観念したようにふー…と息を漏らすと、そこで漸く学校仕様のスイッチが切れたように感じた。◎の腕を握る勝己の力が少し緩む。勝己、と呼ばれたことに僅か安堵する。

しかし、何か胸に抱えているというのは変わらない。目を伏せて思い悩んでいる表情が表に出ただけだった。
◎は掴まれていない方の手で半顔を覆った。この胸の内はできるだけ話したくない。この心情の一番外側の、表面上の言葉を探す。

「悩んでることがあって、勝己の前でウジウジしたくなかったの」

「んだよ」

◎が発した言葉に、勝己はやはり、と思う。想定していた回答だ。だが知りたいことは、態度にまで出てくるその悩みとやらは一体なんなのかということだ。勝己は先を促した。

珍しいことだ。◎は基本的に悩みを抱えていることが少ない。周囲の環境には一線置いて客観的に接しているから、深く悩むほどの人間関係はないはずだ。◎が個人的に過剰に大きく抱えている悩みがあったとしてもそれを表に出すことはない。

◎の悩みを解決してやりたいわけではない。ただこの状況が気持ち悪いのだ。何も知らないまま避けられるより、把握した上で本人が解決するのを待つ方がマシだ。

◎の悩みなど、だいたいは「話のシーンが上手く繋げられない」という勝己にとっては極めてどうでもいい執筆関連だったり、「なんであそこあんな選択したの…」という読了した小説に対するやり切れない気持ちだったり、そんな程度のものばかりだ。本以外の悩みなんてここ数年聞いたことはない。こんなに悩んでる姿なんて、と思考が巡る。そしてふと、思い出したことがあった。

小学生の時、◎は数日学校を休んだことがあった。健康状態に異常があったのではない。「学校の子に誤解されてることがあって行きたくない」という内容で一週間ほど休んでいた。その理由をはじめ勝己は知らなかったが、◎いない間にその原因を知った。

こいつが俺を避け始めたのはいつからだ、と、怪訝に思いながらここ数日の記憶を振り返る。そして一つ、予感が過ぎる。しかしまさかそんな訳はないと、出てきた瞬間にその予感をなかったことにしようとした。…この思考には焦燥があった。

「勝己には関係ないことだから」

「知らねぇまま気色悪りぃよりマシなんだよ吐けや」

「…」

問うと共に掴んだ腕を揺する。
◎は口を閉ざしていたが、このまま何も言わないままでは勝己は納得しないと察した。また、言葉を選ぶような、悩ましい息が漏れた。それでも言うか言うまいか迷っているような葛藤があった。

沈黙がかなり長く続く。
このまま何も言わないまま今日が終わるのでは、と思うほどに長い静寂だった。◎も勝己も何も言わない。ただ互いの緊張が流れる。
何分か経過したかもしれない。しばらくの後、◎は小さく息を吸って、静かに口を開いた。










「恋、してるかもしれない」










「…は」

勝己から呆気にとられた声が漏れた。

◎は言ってしまった、とできる限り視界に勝己が入らないように目を逸らした。言いたくなかったとでも言うように顔を歪めている。勝己からの視線が居心地が悪い。
一度この口の戸を開けてしまえば、後は吐き捨てるように言葉は続いた。わずかにイラついた、珍しい口調だった。

「…粘着質な感情に嫌気が指してるの。それだけ」

「誰だよ」

「言いたくない」

「ってこたぁ俺の知ってるやつか」

不機嫌な声でそれ以上の詮索を防ぎたいのに、勝己は嘲笑混じりに掘り下げた。勝己のその声には平素より余裕がなかったが、それを把握できないくらい◎にも余裕はなかった。

相手の名前は絶対に言えない。言えるわけがない。心の中でずっと否定してきているのに、名前を言ってしまったら肯定してしまう。

伴っている感情が純粋な好意だけならば、簡単に名前を言えるのに。勝己が好きだと。


「やめてよ」


強く出たその声には、嫌悪感があった。

ぴたりと空気が止まった錯覚をした。勝己の呼吸が一瞬止まる。踏み込ませないように抵抗している◎が必死で、その中には勝己に対する拒否があった。少なくとも勝己にはそう思えた。

きっと自分は勝己を傷つけることを言っている。◎はそう自覚した。だが、この気持ちを暴いて勝己に嫌われるくらいなら、勝己を傷付けてでも自分の秘密を守りたかった。

どちらも最低の選択肢なのに、今の自分はそんな選択しかできない。最低だ。
恋愛なんて、美しいのは物語の中でだけだ。汚い。愚かしい。醜い。格好悪い。そんなドロドロした思考が頭に溢れる。
自己嫌悪で泣きそうだった。泣くのをどうにかして抑え込みたくて、言葉を吐く。

「ぐちゃぐちゃで気持ち悪いから切り捨てたいの」

半顔を押さえる手で拳を握る。くしゃりと前髪を掴んで、汚いものを排除するように語った。腕を掴む勝己の力が緊張していく。触れられてる部分に意識が向く。そこだけに触覚が集中しているようだった。

「頭がいっぱいになるのをどうにかしたい」





のに。





消えない。

恋情の推測が、心にべったりと張り付いている。道に吐き捨てたガムが厚かましくそこにあるように、固着してどんどん黒くなっていく。そんな様子が最も近しい比喩だった。

前の自分になりたい。
(勝己を裏切りたくない)





思考はこんなにも単純なのに、感情は荒れ狂って元の形を忘れてしまうほどに掻き乱してくる。嵐のようだ。
勝己と過ごした時分の居心地の良さは確かに覚えているのに。記憶が明確である分、現状が許せなかった。

勝己は答えない。

◎はひとしきり吐き出した後、顔を歪めたまま溜息を吐く。顔に当てていた手をパタリと落として、肩を脱力させた。気を取り直したように息を吸って言う。

「ごめん。人に話したら後戻りできない気がして、言いたくなかった」

小さく出た謝罪の言葉は、久方ぶりに何も考えずに話した言葉に思えた。それでも声は消沈としていて、やはり勝己の顔は見れない。目線を斜め下に向けて、アスファルトを視界に映した。

「離して。帰るから。一人で整理つけたいの」

未だ強く握られる腕を離してほしくて腕を引く。◎のその意思を勝己は承知していそうなのに、手は離れなかった。
勝己、と少し苛立った、叱責するような声で呼ぶ。すると勝己の手は、力を緩めるどころか強く◎の腕を握った。痛みで◎の口から声が漏れる。

「いっ…」

「整理だァ…?んなもん出来ねぇからさっさと吐いてフラれろや」

勝己の声は高圧的で、口調は完全に命令だった。

その言葉の真意はきっと、勝己も現状に苛立っているからだ。
自分たちは対等で、遠慮がなく気の置けない兄妹のようなものだ。一番好きな人。その認識はお互いに相違ない。
それなのに◎は今、一番強い感情の矛先を明後日の方向に向けて、恋心を抱いている誰かに意識を向けている。それは今までの自分たちの関係が崩れることに通じる。勝己はそれが嫌なのだ。

それを理解してる。勝己を裏切っていることへの申し訳なさと後ろめたさが溢れる。こうなることを望んで現状に甘んじているわけではないのに。
その本意と共に、また理不尽に◎の心に言葉が流れた。

ーーー私のことをそういう意味で好きなわけでもないくせに。

嫌だ。
なんて短絡的な感情の言葉だと、◎は自分の中の言葉に反論した。それは言い返せないが故の、なんでもない言い逃れだ。仮にこの感情が恋であることを認めても、勝己に同じ感情を返してもらいたいわけではない。心の中でそう叫んだ。

己の中に生まれている恋情の欲を心の内で言い伏せながら、◎は浅く息を吐き、少しでもこの心情が表に漏れ出ないように声を出す。上から力尽くで押さえ込んだような声だった。

「告白しないわ。誰にも言わないで捨てる」

「できてねぇだろ。自分の感情を認めもしてねぇくせに」

「やめてって」

「ムカつくんだよ」

「勝己はそう思うとわかったから会わないでいたのよ」

話すたびに自制心がなくなっていく。半ば叫ぶように声を荒げている自分に死にたくなってくる。なんてひどい有様だ。なんでこんなことを言っているんだろう、と、また別のやけに冷静な自分が静かに落とした。
手を離して、と、ただそれを強く考えた。

「ちげぇよ」

勝己の手が離れる。
その一瞬の後、指に◎の後ろ髪を通した勝己の左手が、首の後ろに回る。びく、と驚いて思わず顔を上げようとした顔は、額を右手で押さえつけられた。視界には勝己と、遠くの景色に見える校舎。

「かつ」

言葉は言い切る前に、飲み込まれた。勝己の唇に。
ふわりと触れたそれは微熱を帯びて、◎の唇に柔らかく降った。ぐちゃぐちゃに混乱した思考は全て吸い取られたように、頭が白くなった。勝己の顔の体温が空気を伝ってくるのを感じた。

(は?)

なに。なんで。

何をされているのか、一瞬の無の後に理解した。
途端、◎は勝己の胸を押した。力押しをされれば敵わないことは百も承知だったが、勝己は簡単に離れた。

「っ!か、つ」

はっきりと、◎は勝己を見た。動揺で言葉は途中で切れた。唇を押さえる。

顔が熱い。
いま何をされた?

わかりきっていることをわざわざ自問したのは、否定したかったからだ。

勝己に表情はなくて、見慣れた顔だった。◎の力に押された流れで勝己は◎を離す。勢いでその場から後ろに下がったのは◎で、信じられないものを見るように、瞠目して勝己を凝視した。◎と目が合うと、勝己はなんでもないように、しれっと口を開く。

「今そいつのこと忘れたろ」

言葉は淡々としている。まるで髪に引っかかった落ち葉を取ってやったかのような感覚でキスをしたように思えた。
そいつって誰、と、◎は混乱した思考で勝己の言葉を追った。

「その程度の感情だからさっさと認めてフラれろってんだよ」

…なんで。

「俺とキスなんて別に初めてでもねぇのによ」

なんで。



(なんでこんなことするのよ)



せっかくずっと、否定し続けてきたのに。
意思とは関係なく芽生えた喜びは、数日の否定的な思考を一瞬で帳消しにした。同時に自己嫌悪は数倍に膨れ上がった。

期待するようなことは、言えない。勝己に軽蔑されたくない。

(意味なんかない。本当に、落ち葉を取ってくれたのと同じ感覚だ。勝己は私を兄妹として大事に思ってくれていて、兄弟離れしたくないだけ。キスなんか意味ない。こんなの意味なんかない)



…なのに頭は名残惜しく感触を反芻してる。



勝己に触れられた首や額を、唇の感触の後を追いたくて、その場所に手を伸ばしたくなる衝動を必死に抑えた。爪が食い込むほど拳を強く握った。胸が切り裂かれているようだった。

「…嫌だ」

「往生際悪りぃ!とっとと諦めろや!」

「だって、勝己」

◎の声は力なく、どうしていいのかわからないと言いたげだった。

「こんな感情向けたくない…向けてるなんて知られたくない…」

汚い。
変わりたくない。


「今の関係を壊すくらいなら黙殺したいの」


それは、◎の一片も相違ない本心だ。
勝己は◎の弱々しい様子を見、ふ、と目を逸らした。頭に浮かんだ助言。少しだけ思考した後、勝己は口を開いた。

「…てめぇがそんだけ苦しんでるもんならとっとと捨てろや。そいつごと」

それは、勝己にとっては第三者の意見として最も適切なアドバイスだった。その中には、知り尽くしている◎に戻ってほしい願望もあった。
◎はその言葉を聞いて瞠目し、唇を薄く開いた。何かを言おうとしたのかもしれなかったが、その口から音は出なかった。ただ、捨てる、と◎の思考が巡った。

数秒、視点を動かさないままの◎の目から、ぽろ、と涙が溢れた。一つ流れるとまた次の雫が溢れて、涙腺の締まりが壊れたように◎はぼろぼろと泣いた。はじめ泣き声はなかったが、息を吸った時に発した細い呼吸音で勝己は目を上げた。
◎の顔は涙を堪えるようなのに、流れ続ける涙は顎から伝い、制服や地面を何滴も濡らしていた。
勝己は息を飲み、動揺した。

「、に、泣いてんだよ」
「だって…」

想像した。勝己を捨てることを。勝己との関係を完全に断つこと。これまでの全てのことを切り捨てること。
想像するだけで、自分の存在までが消えてしまうと思えるほど、ひどい虚無だ。心の底から怖かった。
想像するのすら耐えられない。

想像の扉を開けて、隙間からほんの少しだけ中を覗いただけで、骨まで喰い殺されそうな気分になる。その扉の向こうに勝己はいない。直視できない。それが現実に起こったらなんて

「そんなの…無理よ。できない、絶対。だから悩んでるのよ」

「………勝手にしろ」

俯いた視界の中で、勝己が踵を返すのが映った。◎の目が勝己を追う。勝己はもう背中を向けていた。
待って、と思ったけど、ぐちゃぐちゃの自己嫌悪が口を開かせなかった。


…勝己。

勝己が好き。
そんなの、認めたくないのに。

(なんで…、勝己)

唇に触れる。掴まれた腕の痛みと、声がリフレインする。






ああ。
なんで………。









(好き)





こんなのひどい。












小学生の時。確か四年の時だ。

(※小学校休んだ時の話。概要のみ。家出疑惑から参照)



今の関係を壊したくねぇってことは、現時点でそれなりにいい関係が築けてるってことだ。

「………」

『勝己には関係ないことだから』

つまり俺は蚊帳の外かよ。

だいたいどいつがそうかなんて想像つく。あんだけ話してるとこ見せられりゃ嫌でもわかんだよ。

…あいつはずっと俺のもんだと思ってた。
家族で、兄弟みてぇなもんで、ずっと一緒にいるもんだと思ってた。それこそ死ぬまで一生、一緒にいるもんだと。
俺は、あいつがだいたい何に関心を持ってて、だいたいどういう場所に行きたがるかなんて簡単にわかる。当然だ。生まれた時から一緒にいんだ。

一緒にいる方が、自分が自分に馴染むみてぇになるくれぇ息がしやすくなる。
あいつだって、そのはずだったんだ。



なァ。
ガキの頃、ずっとてめぇの手を引いてたのは俺だろうが。



『恋してるかもしれない』

寒気がした。ぞわり、と何か気持ち悪いものが背中を上ってきた。瞬間、頭の中にある単語が黒く滲み浮かんだ。

『喪失』、と。

「っ…クソが」

あいつが何考えてるのかわかんなくなった。霧ん中で蜃気楼でも見せられてるみてぇな感じがした。
唇の感触が反芻する。なんであんなことしちまったのかわかんねぇ。考えるより先に衝動が走った。たぶんあいつがいるってことを確認したかった。後付けの理由でしかねえけど。
俺とあいつの間に第三者が入るなんて、考えたこともねぇ。俺がいる時に、あいつが他のことに頭占めてるなんて、ンなこと今までなかった。頭ぐちゃぐちゃになるまで、あのヤローのこと考えてる、とか。

「あーッ!!クソ!!クソが…!!クソ!!!」

イラつく。
フザけんなよ。





あいつが急に手の届かない場所にいった気になる。
唸りにしかならない息が漏れる。



(…泣くほど惚れてんのかよ)



聞くんじゃなかった。











「なんか、今日の爆豪荒れてんな」










告白



「勝己」
「…」
「ちょっといい?」


「こないだのこと、勝己の言う通りにしようと思って」
「…」
「やっぱり、告白して、終わりにしようって」
「勝手にしろっつったろ。わざわざ言ってくんなや」


「私、ね」


勝己が好き」


「ごめん…」



















「………は?」







◎が抱えている張り詰めた緊張感にはそぐわない、ひどく間抜けな声が出た。出てくるであろうと思った言葉は出て来ず、代わりに発せられたのは全く予想だにしなかった告白で。勝己は動揺を自覚できないほど動揺した。

「…いや、だってお前…あ?」
「…?」

轟の野郎に惚れてんじゃねえのかよ、とセリフがそのまま頭に浮かんだ。だが◎はまだ、突けばすぐに泣き出しそうな赤面の表情のままで不思議そうに勝己を見ている。その内心には轟の存在など微塵もないなんてことは目に見えて、確信的に把握できてしまった。
混乱の渦が波を収めるまで、勝己は驚嘆の表情を見せていた。が、行き場を失った苛立ちやら悪い予感やらが勝己を脱力させ、やがてぐったりと首を落とした。

はあ。

「んだよ…俺かよ」

◎は俯いて表情を結んだ。勝己から降る言葉に心を構えるようだった。



「ンなもん、今更………知ってんだよ」



呆れた。ひどい杞憂をしていたのだと理解した。バカかよ。
勝己はもう一度溜息を吐き、◎に近付く。◎は不安と恐怖を滲ませたまま体を強張らせ、近付く勝己の足元を見ていた。

「戻んぞ」

小突くように頭に手を置いて言い、立ち止まらず勝己はそのまま◎の横を通り過ぎた。
◎は勝己の言動があまりにも呆気ないことに心が無になった。なんテンポか経ってからその言葉を理解したが、戸惑い、呆然と訳がわからないまま勝己を振り返る。

「、え?あの、勝己」
「ああ?」
「…フラれる、つもりでいたんだけど…」

私、フラれた?と言葉の外に問いを含めた。勝己は立ち止まり◎を見ると、呆れと怪訝を隠さないで答える。

「なんでだよ。お前が惚れてんの俺なんだろ」
「う、ん」
「フる必要ねぇだろ。今更」

言っていることは理解できる。勝己が意味を履き違えて回答しているわけではないということもわかる。察しはいい人だ。先日交わした会話と、先程の告白から、この状況で◎が”兄妹として好き”なんて言うわけない。勝己は間違いなくそれを理解している。◎が抱えている感情に恋情があることも、理解しているはずだ。それを把握した上でこの答えを出している。と、わかっていたが、それでも◎はかなり戸惑っていた。
勝己は、難題を馬鹿にわかりやすく教えてやるように加えた。

「てめぇが俺のこと好きなんて、別に今までと変わんねえだろが」

いや、違うよ。と内心で返した。今までと同じならこんなに悩んでないし、と続く。しかし勝己があまりにも当然のように言うので口が開けなかった。胸に宿っている恋は否定しきれないのだが、自分の感情に自信がなくなってくる。焦凍に言われた時に初めて自覚したように、抱えてる感情自体は今までと変わらないのだろうか。いやしかし本人の認識がこれまでと違うし、と混乱は続く。
自信がなく疑心が含まれているままだが、勝己の言葉に答えるべく◎は口を開いた。

「…そんなこと、ないと思うけど」
「だぁーっもーうるッせぇな!!俺がいいっつってんだからいいんだよ!いいからさっさと来いやアホ!!」

尚も強く言葉を畳み掛ける勝己にそれ以上反論する思考も言葉も出なかった。その中でぼんやりと、そうか、勝己がいいって言ってるからいいのか、と完全に受動的な姿勢で受け止め、◎はゆっくりと勝己に向かって歩を進めた。釈然としていない気持ちが表れているせいか足取りは遅い。無理矢理納得させられてるような気がしていた。しかし、勝己が何も考えないまま適当に答えるわけないだろうし、この感情も理解してくれている上で答えたんだろうし、他にじゃあどんな答えだったら私は納得したんだろう、フラれたらだね、と先程の繰り返しにもなる思考や自問自答が出てきては流れていった。結局それは一つとして声になるほどの昇華はされないまま消えた。
◎が追いつくと、勝己は◎を置いていかない歩調で再び歩き出した。チッと舌打ちをし、面倒臭そうな態度で話す。いつも通りに。

「くだらねぇことで悩みやがって、バカが」
「だって、勝己は恋愛嫌いだと思ったから」
「ケッ」

恋愛、と改めてはっきり言葉にしたので、◎は恐る恐る勝己の様子を見た。恋愛嫌いは恐らく肯定だが、それ以上の返答ない。下唇を突き出した不機嫌そうな顔はいつも通りだ。その中には意外なことを言われたような様子はなく、やはり◎の恋情を把握した上で回答しているのだとわかった。
勝己の言葉の度に恋情の毒気は徐々に抜かれていき、◎は漸く自分に馴染んだ冷静さを取り戻した気がした。

(勝己に嫌われるかと思った)
(いつも通りだ)

よかった。
呆気ないくらいいつも通りだ。

安堵が幸福を引き連れてきて、◎は口元が緩み破顔した。隣にいる勝己の存在と、耳に響く足音。

「勝己」
「ああ?」
「好きよ」

声になった言葉は自分でも驚くほど、いつも通りに言えた。

「わーってるっつってんだろ。しつけえな」

くしゃりと頭を撫でる。
ふふ、と嬉しそうに笑う。よかった、とまた思考して、安堵で勝手に涙が零れた。目元を指で拭う◎を見て、勝己は眉間を寄せて「泣いてんじゃねえよ」と吐き捨てる。「ごめん、すごく安心して」と◎が笑うと、ふ、と小さく溜息。

「バーカ」

呆れた声には僅かに笑いの息が含まれていて、ひどく心地よかった。







箇条書き

轟と主にひっそりと色めいた噂がある。(本人たちの耳には入ってない)

・轟との会話がきっかけで主が勝己への感情にあれ?これってもしかして…って恋愛感情の片鱗を自覚する。

・小学生の時に勝己と付き合ってるって言われたのは、もしかしてその時から自分には恋愛感情があったからなのでは?と思い始めて、内心否定するも否定しきれずイライラしていく主

・轟や誰かと話したくなくて(勝己と主の仲の良さを知る人はほとんど「付き合ってるの?」的な話をしてきたため、轟以外にも恋愛感情を示唆してくるかもしれないと思った。親しさは隠してるけど昼食中勝己の名前も出るので、)、メシ処での昼食をやめて、購買でパンとか買って外で食べる所を探すと勝己を見つけて一緒に食べる。冷静を取り戻したかった。

・他意なく勝己が主に触れようとした時に主が逃げる。その時は勝己は大して気にしなかったが、その辺りから勝己に対しても主の態度がいつもと違って、イライラする勝己





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