恋追い。









(♂夢/忍卵/善法寺伊作/片想い/失恋)



兄を尊敬している。
死の病なんてどうでもいいほど、ああなりたいと思っている。
むしろ、自分が死んであの人が生きてくれるなら、その病の片鱗も残さずに貰いたいと思った。


(本当に、本当に、愛しているんだ)
(今も)















「ねぇ、○、好きだよ」

伊作の声が響いた。その声が向かった先の○は、まるで聞こえていないように無反応だった。伊作が何を言うのか知ってから、その言葉の真意を理解してから、○は伊作の言葉に聞く耳を持たなくなった。それでも、会うたびに伝えたい気持ちが伊作の胸に宿っている。

「○」

その肩に触れようとすると、パシンと叩かれた。振り返った○の目は敵意すら感じるほどに鋭くて、伊作の胸にはまた棘が刺さった。冷たい応えを何度受けても、それが恋しい相手からだと心は抗体を作れなかった。

「触るな」

吐き捨てるように放たれた言葉は、悲しいほどに耳に馴染んだものだ。
いつだって○はそう言って伊作を否定した。
そのたびに伊作の胸が鉛のように重くなっていることに、○はいつも見向きもしない。傷が増えるたび、伊作はいつも悲しそうに笑った。だけど伊作に背中を向けている○は、きっとそんなことも知らない。
二人きりの時だけ冷たくされるのが、尚のこと辛かった。










久々に羽を伸ばせる休みだった。いつも何をしていたのかと問われればあまり思い出せないが、備品を直したり、薬草を栽培したり、生物たちの餌を調達したりしていたのだろう。もしくは補習か。
うまいものを食べて、甘味を食べて、久方ぶりに厳しさを忘れられた。しかしそんな中でも、人の流れを観察したり、壊れた桶を見つけてしきりにそちらを見たり、雑草の中に薬草はないかと目を配ったり、野良犬を見て呼び寄せたくなったりしたのは、もはやそれが身に染み付いているからだろう。
それぞれ後輩たちへの土産も買って、和気藹々と学園へ帰っている途中だった。前方から馬が走ってくるのが見えた。乗り手を見ると一年は組の加藤のところの馬借のようだとわかり、見送ると伊作は「学園にかな」と呟いた。この先には忍術学園があるくらいだ。それより先へ進むのであれば学園の方は遠回りになる。


「また留三郎んとこの一年じゃないのか?」

「しんべヱか?」

「そうそ、しょっちゅう来るらしいなぁ。そのたび三次郎と虎若が甘いもん食べたがるんだよ。おかげさまで財布が寂しい」

「そんなこと言って、デレデレになって一緒に甘味処行ってるじゃないか」

「仕方ないだろ、あいつら可愛いんだから」


三人で軽口を交わして笑う。その間、伊作は思った。こうしてみんなでいれば、○とただ隣にいられるだけで十分なのにな、と。
○は厭う事なく、笑顔で伊作の隣を歩いている。










忍術学園に戻ると、真っ先に小松田が顔を見せた。いつもどおりのほにゃっとした顔で「おかえりー」と三人を出迎える。

「小松田さん、ただいま」

それぞれ軽く挨拶を交わし、三人は相変わらず談笑しながら着替えるべく長屋へ足を向けた。明日は座学だなとため息混じりにぼやき、明日実技のい組の誰かが授業替わってくれないかなと都合のいいことを話したりした。
その歩みが遠く進む前に、小松田の何か思い出したような声が三人を引き止めた。否、正確には一人を。

「あ!そうそう○くーん、ご実家からお手紙が来てますよー」


びくり。


○の肩が震えた。○が硬直したことに小松田は気付かなかったようで、いつもどおり腑抜けた笑顔ではい、と○に手紙を渡した。操作されているような動きで○はそれを受け取り、ありがとうございます、と呟いた。しばしそれを見つめていたが、やがて指の力が強まり紙がくしゃりと皺を作った。つられて立ち止まった二人はそれを見て不審そうな表情を○に向けるが、二人の視界の焦点が合う前に○はくるりと背を向けた。

「悪い、俺先に部屋戻るな」

伊作と留三郎の方をほとんど見ないまま、○は足早に長屋を目指して視界から小さくなった。留三郎は至極不思議そうに○を見送り、「なんか変だな、○」と伊作に言った。















手紙の内容なんて、大方予想がついた。きっとそれは○にとっては良くないものだと。
手紙を読んで、思い描いていることが事実と知ってしまえば、事実を肯定せざるを得なくなる。できることなら知らないままでいたい。期待の出来ないような願望でも、ささやかな希望に安堵したい。…だけど、どうせ遠くないうちに突きつけられる事実だ。

諦めに似たような気持ちで、○は手紙の封を切った。身体の奥に溢れそうな感情が今か今かと決壊したがっている。それは良くない予想を確信しているからで、それを否定したくて○は誰もいない部屋で平静を装った。手紙にはしなやかな母の字で「○へ」と始まり、季節の挨拶と近況が丁寧な文章で書かれていた。さっさと本題に目を向けたい気持ちを必死で抑え、されど読み進めるに従いじわじわと歩み寄る恐怖のようなものが影をちらつかせているのを感じていた。

『床に伏せていた――は………』

兄の名前が文面に表れた途端、急いていた○の気持ちは止まった。と、そのまもなく、塞き止めていた感情がまた流れを取り戻して洪水のように○を襲い始める。兄さん、と、○は声に出さず呟いた。それ以上読む必要のなくなった手紙をかさりと落とすと、○はその場に崩れ落ちた。





「○?」

びくりと○の肩が震えた。それは声を掛けられるまで近づいてくる伊作の気配に気付かなかったと体現している同然だった。伊作はそれを察し、今○が平静を失っているのだと知る。気配を消したわけではない。こうして彼に近づくのはもう数えきれないほど数を重ねている。たとえ気配を忍ばせても、○は伊作の存在に気付いていた。不意を突くなんてこれが初めてのことだった。
不穏な様子を感じ取って、伊作はいつもそうするよりも急いた気持ちで部屋の中へ侵入しようとした。

「来るな」

氷を張るようないつもの冷たい言い方は変わらないのに、今の○はとても不安定な場所にいるように伊作の目に映った。その背中が孤独に襲われた子供のように弱々しく見えて、どうしようもなく堪らない気持ちになった。半ば衝動的に、○の声を無視して伊作は部屋の中に足を踏み入れる。○はそれに気付いているだろうに、それ以上は言葉を吐かなかった。

「○…?」

返事はなく、部屋には空虚が満ちた。伊作も膝をついて視界を低くし、再び声をかけようと口を開く。が、それよりも先に視界に白いものが映り伊作の意識はそちらに逸れた。手紙だ。先刻小松田さんから受け取ったものだろうかと首を傾げ、一拍の思考の後「読んでもいい?」と声をかけた。相変わらず○は伊作に答えず、一瞥すらくれない。
拒否しないのならば良いのだろうと伊作は手を伸ばした。いちいち○がリアクションをくれないかと視線を向けてみるが、期待に応えられる気配はまったくなかった。

手紙に何か書いてあるのだろうと、○が手紙を受け取ったときからそう感じていた。
かさりと手紙を手に取り、伊作は何が○をこうしているのだろうと、何一つ読み落としはしないという気持ちで手紙を読み進める。だが、そんな注意を払わなくても、激しく不意を打つ文面が視界の中に入り込んできた。内容を理解すると伊作は瞠目し、ハッと○を見た。

「、」

何か言おうとしたが、○の姿を見た途端伊作は言葉を忘れた。いったいどんな言葉をかけてやればいいのだ、と。
ざわざわと伊作の胸中で風が吹いた。ああ、○。もしかして君がずっと僕を否定し続けた理由はまさか。

「○…」

切なさに満ちて、その一つが声となって零れた。
ねぇ。

(そんなに震えているのに、君はまた触るなって言うのかい?)


伊作の指が○の肩に触れる。いつも払われる己の手が咄嗟に浮かび瞬間躊躇ったが、不安な気持ちの中に細やかな喜びが芽生えて躊躇いは煙のように消えた。だがその喜びもひどく空虚に包まれている。肩は強張っていて、そっと掌を載せても○は振り払おうとしなかった。拒否されないということが、これまでずっと自制していた欲を溶かして、ゆっくり倒れこむようにして伊作は○の背中との距離を縮めた。背中と胸が触れ合うと、伊作は○の胴に腕を回して後ろから抱きしめた。○は何かに耐えるように身体を固くして、やがて声にならない嗚咽が一つ漏れた。それが我慢の決壊となり、○は小刻みな浅い呼吸を吐き、辛そうに一気に息を吸ってはまた吐いてを繰り返す。兄さん、と、嗚咽に塗れた言葉が行き場もなく彼の口から漏れた。伊作は堪らなくなって、○を抱きしめる腕の力を強めた。顔を○に押し当てるように前へ傾けると、○の震えが肌に伝わってきた。

(○…)

触れたいと思っていた欲が満たされた途端に、全身に遣る瀬無さが巡った。

こんなに近くにいるのに、○が思っているのはここにいないたった一人。たった一人のために震えて、泣いて、まるで伊作のことなど見えていないように。
伊作はぐっと拳を作った。奥歯をかみ締めて、固く目を瞑った。

「○…」

やっと声になったような小さな囁きは、○の嗚咽に埋もれた。
頬を伝った涙が○の肩口を濡らしたことも、気付いていないのだろうか。





(こうして一緒に涙を流しているのに、僕たちの気持ちは交錯しない)


(君は絶対に、僕に振り向いてくれない)









甘い甘い、君への思い。

苦い苦い、届かない恋。

それでも、好きになれて幸せだなんて、君でなければきっと思えなかった。




×