21:30
そろそろ、店内の時計が夜9時半を指す頃になって、
「ち、どうすっかな…」
と、吉沢は軽く舌打ちをした。
「どうしました?吉沢先輩」
グラスを下げにキッチンへ来た樹が、声をかける。
白いシャツに黒ベストと黒ズボン、二人ともバーテンダーのような格好だったが、別にそういうわけではない。
どういうわけか、こういう店で男子スタッフの制服といえばバーテン、もしくはスーツだった。黒服、の語源はここからきたのだろう。
「や、鳴のやつ、今日同伴なんだけど、まだ来ねーんだよ」
確認の電話、入れた方がいいか?これ、と胸ポケットに入った携帯電話を指す。この店でマネージャーを務める吉沢は、鳴担当の男子スタッフでもある。
担当になった当時原田に、付き合ってるんだし雅が担当でいいだろ、と言ったのだが、公私混同はよくないからお前に任せる、と思ったとおり生真面目な反応が返ってきたので、結局鳴の出勤時間や出勤日、売り上げ金額や指名数などは全部吉沢が管理している。
「…そうですね、もう5卓に鳴さん指名のお客様いらしてますし、どこに居るかの確認はした方がいいかもしれません」
この店では、客と一緒に出勤する同伴出勤は、9時半までと決められている。それ以降に店に入ると遅刻扱いだ。
事前の連絡や一緒に居る客によって、多少融通は利かせるが、遅くなればキャストにとっても店にとってもデメリットが大きくなるので、みんな大抵規定時間には店に入るようにしている。
仕事を始めてから日の浅い鳴は、しかもただでさえ人の話を聞かないから、こういう細かい規則をしょっちゅう忘れていた。
…本人が忘れているだけならまだいいが、店以外の場所で客と会うとなるとそれなりにリスクもともなうわけで、吉沢が心配しているのは、むしろそっちのほうだった。
連絡はちゃんとしろって言ってるだろうが、と顔をしかめる吉沢を、苦笑しつつ樹が眺める。
なんだかんだ言って面倒見のいい吉沢は心配なんだろうな、と思う。
「今日誰なんです、お客さん」
「ん、新規。こないだフリーで来て、鳴を場内した、7卓の団体の、多分代表…遊び方は知ってる人だと思うんだけどな」
「んー、じゃあ、平気かな…」
その時、入り口で「いらっしゃいませ!」という声がかかり、待機席にいたキャストがいっせいに立ち上がった。
「もー、まじおもしろすぎ!笑いすぎて、俺遅刻するとこだったじゃん!」
きゃあきゃあと甲高い声で、誰が来たのかすぐ知れる。
一瞬ちらりと目を合わせて安堵の表情を見せたあと、吉沢と樹はそれぞれ足早に持ち場に戻った。
アイスペールとおしぼりを持って樹が客席に客を通す。
「じゃあ俺着替えてくる!」
そのまま入り口からロッカールームに向かう鳴を途中で捕まえて「平気か」と吉沢が聞いた。
「あ、うん大丈夫、今日はマジでただ遅刻しそうになっただけ…雅さんは?」
「今日は六本木に行くって…お前来たって連絡しとく」
「ん。よろしく」
「鳴おはよー」
「おはよー翼クン!樹もおはよ!」
「おはようございます」
スタッフに一通り挨拶をすませると、ちらりと客席を振り返って、今日同伴してきた客とは別の指名客のテーブルに、ちいさく手を振る。
こういうことが教えなくても出来てしまうあたり、鳴がこの店でNO1な理由だろうな、と樹は思う。
どうやって覚えてるのか目に入るのか分からないけど、たった一度しか来ていなくても、席に着いたことがほとんどなくっても、鳴は客のことをよく把握していた。
まあ、そうでなくてもあの容姿なら性別云々言わせずに客は付くんだろうけど。
慣れない服を着るせいか、鳴の着替えはやたら時間がかかる。
髪は短いままの地毛だからセットにたいして時間は掛からないらしいが、遊び心でウィッグをかぶることもある。
そのときの髪型にあわせて服を選ぶのだが、それがなかなか時間がかかる。
で、決めてからまた着るのに時間がかかる。
実際は同性なわけだから、樹も何度か鳴の着替えを手伝ったことがあるが、実に簡単な構造の服をものすごく難しく着ようとしていることがよくある。
やれエクステが絡まったの、ファスナーに手が届かないの、リボンを逆に結んだのと騒ぐ鳴を見ると、着物でもないのに鳴専属の着付け師がいた方がいいんじゃないか、と毎回思う。
今日は、同伴だったからか髪の毛は地毛のままだったし、さっさと服さえ着てくれればなあ、と思っていたらロッカールームの扉が開いて鳴が出てきた。
今日は薄いピンクのドレスにしたらしい。膝下あたりから絡むレースにビーズがきらきらと反射して、暗い店内で鳴の白金の頭と一緒になってよく映える。
「いいですね、それ。着たことあります?」
「いや、こないだ白河が選んでくれたヤツ」
なるほど、納得。
ぱっと見ると丈は膝下までレースが絡む中位の長さのスカートに見えるが、中の下地は実際ミニスカート位の丈しかない。
お前清純ぶっても意味無いからちゃんと小悪魔しろよ、と言っていた白河らしいチョイスである。
「さすが六本木の嬢王のアドバイスだけはありますね」
「うん、着やすいし、気に入った。俺はターコイズで、こう、胸から腰くらいにビーズのラインが綺麗にはいってるヤツあげたんだけど、着てくれてっかな」
「さあ・・・あの人もあなたに負けず劣らず気まぐれですからね、さ、行きますよ」
鳴があげたのなら、間違いなく着てる。
出勤日でもないのに家の中で着てカルロスに見せびらかすくらい絶対やってる。
そう思いながら樹は、えーあとで聞いとこ!あ、樹もちゃんと聞いといてね!と騒ぐ鳴をテーブルまで連れて行った。
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やっとナンバーワンご出勤。
他の稲実メンバーは黒服です。
今度は六本木の方の話も書きたい。
しかし、六本木は歌舞伎よりも未知の世界なんだ…
10.02.09