隣人に愛を/ある神父と亜種聖杯戦争
通り過ぎる景色の一切を目に納めることもなく、男は暗闇の中をひたすらに走った。
先程まで男が立っていた場所には雪崩の様に矢が降り注ぎ、遥か後方で光が瞬いたと思えば男の直ぐ後ろで鈍い音に弾かれて眩いばかりの光が散る。
自分の後ろを守護してくれている相棒も楽しげではあるが余裕があるとは言い難く、最低限のラインで「男を生かす」ことだけを考えて動いてくれている。
先程の話し合いの末だした答えは彼にとって無念でしかないはずなのに、本当に良くできた相棒だった。
その強さと勇ましさに感謝し、その懐の広さにひたすらに謝罪をした。
しかし、そんな悔いばかりの言葉を彼に次に伝えるのはこの場を無事に逃げ切った後だ。死んでしまっては伝えるべき感謝も謝罪も届くことなく消えてしまう。
それではどちらも報われない、彼の決意に報いることすらできない。
だから、男はただひたすらに走り続けた。
喉が、肺が、足が、心臓が、体中の全ての器官が「もう無理だ」と値を上げるのも構わず、とうに限界を超えた細胞たちにまだ働けと指令を送る。
目的の場所がやっと視界に入る、しかしだからといってそれがそうしたのか、まだ走らなくては、逃げなくては、走れ、動け、止まるな、あと少し、諦めるな、もう無理だ、まだ動け、些事は気にするな、前に進め、後ろは彼に預けろ、走れ、もう疲れた、生き伸びろ、あと少し、足を踏み出して、手を伸ばして、最後まで止まるな、あと一歩―――

「わぁ!!?」

街のはずれにある教会の、重く大きな扉をいかにして素早く開けるか、それが最後の難関であると極限まで神経を研ぎ澄ましていた男の身体は思いきり扉へと伸ばした手が体ごとその内側へと吸い込まれるように転がったところでようやく終わりを迎えた。
 そうして他の一切を省みずに走り切った男の身体はようやく前方以外の景色 ―教会のなかの仄かな明かりに照らされたマリア像や小さなオルガン、きれいに磨かれた長椅子に、埃の見つからない赤絨毯― を映し、そして最後に大きな扉を慎重に閉めながらこちらを振り返ったひとりの少年を視界に収める。
最後の最後に教会の扉を内側から開け放ち、結果として男の生を繋げてくれたその少年。
名前を呼ぼうにも未だ息が整わず、足に込めた力はことごとく抜けていく現状で男は、それでもとなんとか掠れて出ない声を絞り出し、座り込んだままではあったがその少年へとしっかりと目を合わせ告げた。

「ありがとう、神父様」
「こちらこそ。生き延びてくださり、ありがとうございます」

下から覗きこんだその瞳は恐ろしいほどに澄んでいて、光を背にした銀色の髪がキラキラと視界の端を飾る。
その姿に、声に、言葉に、男はその時なんの疑いもなく「この神父こそ神の使いに違いない」と静かに胸の中で祈りを捧げた。

***

安心してお待ちくださいと言われて数分後、神父である少年は水とバスケットに入ったパン、そして一枚のタオルと薄めの毛布を持って帰ってきた。
その頃の男と言えば、先程までが嘘のように穏やかな空間に回復してきた身体と頭が追い付かず、横からかかる声になにを言われても右から左へと通り過ぎてしまう程には放心していた。
しかし、そんな男の耳にも少年特有のアルトが清涼な風のようにスルリと届き、振り向いた先にいつの間にか戻ってきていた神父のその腕に毛布が抱かれているのを見て、男はようやく全力疾走で汗をかいた身体が冷えてきていることに気が付いた。
横から「だから言ってたじゃねぇかよ、俺が」と飽きれたような声が聞こえたが、こちらは聞かなかったことにする。
「大丈夫です、落ち着いて」
神父はまず水を、次に少し湿ったタオルを、そして毛布、最後にパンをひとつ差し出した。
そこまでくれば掠れていた声も話を出来るまでには回復し、多少綺麗になった身体を毛布にくるめば歯がかみ合わなくなる程に寒さを感じることなく、落ち着いてしっとりとしたパンを食べることができた。
神父はそんな男のことを静かに見守りながら時たまちらりと男の横へと視線を向けるが、その口が開くことはなくただ穏やかに目を細めるだけだ。
 まるで見透かしたかのように扉を開いた神父だったが、こちらの話を聞かない限りは話を進めないのだろうと察した男は一息ついたところで近くの長椅子に座り直す。

そして、ここに至るまでの経緯を簡潔に話し出した。
知っての通り、自分が現在行われている亜種聖杯戦争のマスターの一人であること。
サーヴァントも召喚し、情報を集め、この戦争に備えていたこと。
参加しているマスター5人のうち1人と同盟を組んでいたがその相手はスパイで、本当は自分以外の4人が同盟を組み、真っ先に自分を蹴落としに来たこと。
サーヴァントと話し合った結果、自分はこの聖杯戦争の棄権を希望するということ。

淡々と起こった事実と伝えるべき事項のみを告げる男は声が徐々に掠れそうになるのを抑えるのに必死だった。
世界各地で行われ続けている小規模な亜種聖杯戦争のひとつ。冬木で行われたものには及ばずとも人の身には過ぎた奇跡に触れるとこでできるかもしれないチャンス。
魔術師として喉から手が出るほど欲しいそのチャンスへの挑戦権を得たというのに。
召喚したサーヴァントは自分には過ぎた英雄で、参加者5人、2画のみの令呪、信頼できる協力者と順風満帆に進む過程にもしかしたらなんて希望すら抱いていたというのに!
 それでも、もしこれが冬木の聖杯戦争並みの奇跡を得ることができる戦いならば棄権などはしなかっただろうと思う。
それだけの価値が冬木の聖杯にはあった。まさしく命を賭しても叶えたい、知り得たい神秘があった。
 だが、今この街にある聖杯はそうではないのだ。
 命を賭けるほどの願いをこの聖杯に託すことなどできないし、その程度のものに自分を奉げるつもりはない。臆病だと言われようと生きてその先に見つける成果の方が男にはずっと輝いて見えた。
そのことを告げた時の相棒は残念そうではあったが「それで良い」と満足そうに笑ってくれた。

「だから教会へ、私に会いに来たのですね」
「ああ、俺はこの聖杯戦争を棄権する」
「はい、確かに聞き届けました」

だから、後悔なんてない…と言えば嘘になると思っていたのだが、神父に話しているとだんだんとその決断がとても誇らしいものに思えてきた。
 教会に転がり込んだ時にも彼は「生き延びてくれてありがとう」と言った。
この命を無駄に散らすことのなかった男を、慈しみのみで拾い上げてくれた。
そんな神父として、監督役として特に可笑しくもなんともない姿勢に、何故だか男はとても神聖なものを見たのだ。

「戦いが終わるまで教会で身柄を保護することもできますが、どうされますか?」
「良いのか?」
「令呪を回収した後ならば、貴方は一般人です。監督役として無辜の民を危険にさらすことはできませんから」

 一般人、無辜の民。どれもほんの数分前までは戦いの渦中にいた魔術師としての自分を真っ向から否定する言葉だ。普段の自分ならば激昂してもおかしくは無い。
 しかし、今の自分はこの戦争から逃げ出したまぎれもない一般人だ。
 それに、そこまで落ちてしまえばこの神父からの慈悲が男一人に注がれるのだ。
 敗者たる自分だからこそ感受できるその幸福、今まで生きてきた中で初めて目にする紛れもない善性、光を反射して煌めく銀の髪、済んだ瞳、神聖なものに出会ったと心が震えるのをどうすれば止める事ができようかと、その感動のままに神父の手を取ろうとした男を、相棒である英霊は遠慮なく肩を掴むことで無理やり止めた。
 舞いあがっていた気分がスッと落ちつき、肩に食い込む指に思わず眉をひそめて相棒に呼び掛ける。

「悪いなマスター、だがアンタはちょっと気分が高揚してる」
「ええ、無理もありません。お疲れのところ申し訳ない」
「そんな、神父様が気にすることは…!」
「だーかーら、なんだ?ここは不可侵だってんだし、一晩くらい寝て頭を冷やせよ」

な?と男に迫る相棒の言葉に、しかしそれは出来ないのではと神父に視線を送れば、少し困ったような顔で「一晩だけでしたら」と厳かさの抜けた、少年のいたずらっぽい声を返された。
 しかしそれでは、となおも男が良い募ろうとすれば、神父はそっと差し出した指を男の口元へとかざし開きかけた男の言葉をのみ込ませる。

「その代わり、令呪を1画使用してください。教会内での戦闘、殺生を禁じると」
「はァ!?」 
「もし、明日の朝に再度聖杯戦争に挑むのでしたら、その際は私から補充用の令呪を授けます」

 悪い話ではない。
なにやら不服そうな相棒には悪いとは思うが、この条件ならば男が再度聖杯戦争に戻ると言った場合、自分たちは現状と変わりない状態に戻るだけだ。
そしてその一方で神父にとって利が一つもない。
 それでも、この神父は構わないと凪いだ笑みを浮かべて、当然だとばかりにそんな自分を見送るのだろう。貴方に幸あれと、生存を望んだ男が死地に赴く事を惜しみながら、悲しみながら、それでも門出を美しくと手を振るのだろう。

 そんな姿すらも容易に想像が出来る。
 そして想像できるからこそ、男はそのような愚かな未来は選択しないのだろうとハッキリと確信しながら、迷うことなく自分を守る戦士へと謝罪と共に戒めとなる命を下した。

それがとても神聖な儀式のようで、これこそが男がこの戦争に参加した意味だとすら思え、ここで自分の使命はおわったのだと異常な程の満足感に満たされながら男は眠りに就いた。
 この戦争中と言わず、この生涯のなかでこれ以上がないと断言できるほどの幸福に満ちた美しい眠りのなかで、男の聖杯戦争は静かに終わりを迎えたのだ。


* * *

「まだ起きていたのですね」
「サーヴァントは寝る必要はねぇからな」

時計の針が真上を過ぎ、街に暗闇と静寂が訪れる、魔術師たちの時間。
街外れの教会の中には1人、ともすれば2人分の声が静かに響いた。

一人は教会の神父たる褐色の少年。
一人は今夜訪れた男の守り手たるサーヴァント。
守るべき男は身体的にも精神的にも疲労が溜まっていたこともあり、今は神父に案内された個室で夢の世界へ沈んでいる頃だろう。

「あと、アンタはなんでか信用ならねぇ」
「おや、心外です」
「全然心外って顔してねぇぞ」

これだから神職ってやつは…とぼやく守り手を気にすることなく、神父は迷いなく赤い絨毯の上を進み、礼拝堂の前で当然とばかりに膝を付き、頭を垂れ、手を組み祈りを奉げはじめる。
 僅かな月の光がかろうじて差し込む教会の中でのその祈りは何処までも神聖でありながら、どこか歪で、こんな姿を見た日には自分のマスターは先程の比ではないレベルでこの神父に入れ込んでしまうのだろうとサーヴァントは予想を立てる。

そう、この神父はどこまでも正しい。
それは間違いないことだと、名だたる英雄であった自分が断言できる。
しかし、あまりにも正しすぎる。
正しく、美しすぎるその思想は一種の人間には光に見え、また別の者には毒になる。
自分が好ましいと思っていた少しお人よしな所のあるマスターには清らかで眩しい光に映り、その正しさが正しいままに毒になってしまっている。

 恐ろしいことだ。
英雄であった自分は自分の光を見出し、突き進むことで周囲の光となった。
行動で結果を見せ、その勇姿に人は魅せられ、感銘を受け、それが未来へと受けつがれ英雄と語られた。
 だが、神に連なる者たちは違う。
神そのものともなれば別だが、信徒と呼ばれる彼らは祈り、信じるその清らかさのみで人を引き付けるからだ。
悪いことではない。その在り方で救われる人類は数え切れないほどいるだろうし、心の安寧を得るための絶対者が不必要だとは言わない。しかし、祈りを奉げる姿や、賛美を歌うその声そのもに魅せられるようになってしまうとそれはもう神の代行者に他ならない。
そのくせ奴らは信じた神の僕だというのだから質が悪い。
信じた神を信仰するその姿に見せられた者たちのそれは信仰であると言えるのか、その崇拝は生きた者に向けるにはあまりにも強すぎはしないか。

 だから、マスターとこの神父を無理矢理一度離そうとしたのだが。

「結局、アンタの思惑通りってか?」
「思惑…ですか?」

長い祈りを終えた神父がサーヴァントの腰かける長椅子の横にゆっくりと座る。
その動きだけを見れば年相応の少年だと言うのに、話せば話すほどこの少年は神父になり、信徒として確立し、信仰の…崇拝の対象へと変わっていくのだから油断ならない。

「戦えないマスターを傀儡にしてなにをするかは知らんが…聖杯でも求めるつもりか?」
「やはり、心外ですよ」
「あ?」
「貴方のマスターを傀儡になどしませんし、そもそも聖杯など求めてはいません」
「どうだかねぇ」
「私はマスターではありませんが、貴方達サーヴァントには敬意を持って接するべきだと思ていますし、不敬は許されないと思っています。ですから当然『嘘』などという悪を為すつもりはありません」

神に誓って、とそう告げるその瞳がいけない。
どんな理由があるかは分からないが銀色に色が抜けてしまった髪も、どこの国の者が特定を困難にさせる褐色の肌も、少し大きめのカソックを不思議と着こなすその体躯も、サーヴァントである己にとってはありきたりな少年のものでしかないのに。
 一点、その瞳だけは十とそこら生きてきただけの少年ではありえない程の透明さと、達観を物語っている。

そして、だからこそ、信じたくもないとうのに信じざるを得なくなってしまうのだ。
この神父はこの件に関しては嘘をついてなどいない、それは事実であると。
だが、マスターが神父に溺れかけている現状、自分までも全幅の信頼を寄せてしまう訳にいはいかない。

「監視役ってのは慈善事業かなにかかっての」
「いえいえ、監視と管理、隠蔽のみですよ」
「じゃあなぜ、マスターを受け入れた」
「助けを求めた者を救わずして、なにが教会ですか」
「ああそうだ、求めたのは俺たちだ。だが、扉を開けたのはアンタだろ」
「外から物音が聞こえましたから、たまたま扉を開けたんですよ」
「そういうこと言うのか」
「嘘ではありません」
「…あー!駄目だ駄目だ!やめやめ!」

どうにかして尻尾でも掴めないかと、慣れない話術などを駆使してみるがまるで効果は無い。
それどころか、このお綺麗な神父様にも狡く、狡猾な部分まであり好感度が上がってくる始末。

「単刀直入に言う」
「はい」
「アンタは何者だ」

マスターではないが、その毒に犯されてしまうのは時間の問題である。
彼ほど心酔してしまうことは無いだろうが、好意的に思ってしまうのは些かまずい。例え、友であろうと愛したものであろうとその時が来れば相対し、命を取り合うことになっても悔いを残すことはないと断言できる己であっても、まるで姿の把握出来い敵を信頼してはいつ予想外の凶刃に襲われるとも分からない。
 殺すことになるのは良い、だが殺されることはあってはならない。
 俺は、まだ彼のサーヴァントなのだから。

だからこそ、小細工なしで真っ直ぐと、生前でも度々訪れた決断の時の様に神妙に、凪いだ瞳の奥を見抜くように見据え、問うた。
唯人ならば威圧で震えるかもしれない、意志ある者ならば挑むように返されるかもしれない、英雄ならば誇りを滲ませるのだろう。
そして、眼前の神父はと言えば。

「シロウ・コトミネ。此度の聖杯戦争の監督役を務めさせていただいております」
「っ!そういうことじゃ―――」
「それだけです。今の私はただの神父。本当にそれだけなのです」

願いは無い、望みは無い、強く思う相手も無い、理想もない、夢もない、情熱もない。
返ってきたのは、代わりの無い達観と、底知れない透明さを帯びた慈愛の瞳。

「願わくば、誰も傷つかぬよう、私は神に祈るのみ」

この夜も、明日の朝も、また次の夜も。
まだ見ぬ未来に僅かでも笑顔が咲くことを、あたたかさが溢れることを。

「今の私は、それだけなんだよ…ランサー」

祈るために手を組むわけでも、捧げるために膝を折るでもないと言うのに、その姿のなんと美しく、毒々しいことか。
このような姿を見せるくせに、やはりその言葉に嘘など無いと言うのだから最悪だ。

「そうかよ」
「はい」

絆されはしない、信用もしてはいない、だがこの男は間違いなく本物の聖職者である。
きっと、明日の朝まで我がマスターは最上級の安心の中で微睡むことができるだろう。
そんなことを疑うことが無くなってしまった。

「あー夜は長ぇな」
「はい、まだまだ、明けるには早い」

それはなんと頼もしく、優しく、甘く、愚かな決断だろうか。

「よろしければ、明けるまで話をしませんか、ランサー」

ああ、なんて

「最悪だ…」




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