心地よく揺れる電車の振動についうとうとと瞼を下ろしてしまいそうになる18時50分。
昨日までびっしりと詰まっていた仕事もひと段落つき、そうかと思えば大学の講義は待ってはくれないので1限からフルで最後まで駆け抜けた今日はあっというまに過ぎてしまい、気が付けばすっかり外は橙と紺のグラデーションを作り出していた。
寮までまだ時間がかかるからいっそ寝てしまいたいとも思うのだけど、この時間だけは寝る訳にはいかないと葵はスマートフォンにイヤホンをつないでラジオのアプリを立ち上げる。
全く聞かないという訳ではないけれど、それほど頻繁にラジオを聞くことはなかった葵の最近の10分だけの日課のためである。
それもこれも平日夕方18時50分から10分間、若手の俳優や未だ無名の声優たちがオリジナルのストーリを2ヶ月間かけて読み上げるという番組と番組の間の繋ぎの為のコーナーを聞くためだ。
聴き始めてみれば脚本の担当者が葵の好みと合っていたこともあり、物語に引き込まれてしまい次の話が気になって仕方が無くなってしまう程だ。
けれど、葵がその番組を毎日聞く本当の理由も、そもそも聞こうと思ったきっかけもそんな真面目な理由ではない。
もっと単純で、ずっと簡単な理由だ。
『"Punisher"第24話。本日も語り部は卯月新がお送りしました』
この、イヤホン越しに聞こえてくる馴染み深い声の幼馴染に関してはいつだって、葵は理由なんてなく惹かれているのだから。
「新、はいるよ?」
ノックも付けて部屋の前で尋ねれば、少しの間を開けた後ゆっくりと内側からドアが開いたので了解の意と受け取り意外に整理されている新の部屋へと足を踏み入れた。
部屋の主はドアの近くに座っていたらしく、ドアを開けるだけ開けてクッションの上にごろりと寝転がっている。
「へい、いらっしゃいませ王子様」
「そんな板前さんみたいに言われてもなぁ」
横たわったままの耐性で葵を見上げて話す新からは台詞に反して敬ったり畏まったりしている様子はまるでない。
そもそも新が葵を王子なんて呼ぶ時はからかっている時ばかりなので当然なのだけれど。
ふと合わせていた目を離し新の手元を見ればすっかり見慣れてしまったタイトルの書かれた台本が抱き込まれていて、思わず眉が下がった。
「ごめん、台本読み中だった?また後からにする?」
「なんでだ、俺が呼んだろうが」
この気遣い王子め、と恨めしそうな瞳が告げる。
確かに呼ばれたのは葵で呼んだのは新だけれど、それがお互いの仕事を邪魔する理由にはならない。どんなときだって仕事と学校を優先させて手を抜いたりしないと約束をしたわけではないけどきっとこの寮の人たちは皆思っていることで、葵と新だってそれは例外ではない。
「さっき一通り読み終わったから良い、なんなら葵に聞いてもらおうと思ってたくらいだ」
「え?それは嫌…かな」
「葵にフラれた、だと…」
それに、新が今持っている台本は最近の毎日の楽しみにしていたラジオドラマの台本だ。
練習中にうっかり先を聞いてしまうのはなんだかとても勿体ない。
もちろん、新が葵に協力してほしいと言うのならば力を貸したいと思うし、そこに嘘はないのだけど、本当は早く続きを聞いてしまいたいと言う欲もなくは…というか凄くあるのだけど、でも、ここで聞いてしまうのはなんだか違うのだ。
以前、毎日楽しみに聞いてると告げたことがあったのでなんとなく理由を察したのか「あーフラれた」と悲しがるフリをする新に謝罪しながら初めから新の横に用意してあったクッションへと腰を下す。
座った葵につられるように、寝転がっていた新も起き上がり葵の肩に緩くもたれ掛ったので葵も新へと少しだけもたれ掛る。
「傷心の俺の為に言うことを一つ聞いてくれ」
「え、うん、どうぞ?」
「そこでどうぞっって言うのかお前…」
顔を合わせるでもなく何をするでもなく、どちらともなく手を重ねて、お互いが話すたびに僅かに震える身体の振動をが心地よい。
軽く弾む会話に内容がないことは分かっているが、そもそも今日ここに来た理由がお互いに分かっているから咎めることもなく、どこかふわふわとした雰囲気を楽しんでいる節さえある。
「それで、お願いってなに?教えてくれる?」
「俺が、教えてほしいなって話だろ?」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「そうか」
「うん」
ぽん、ぽんと軽く柔らかく弾む会話とは裏腹に、ゆったりと落ち着いた新の声が葵の耳へと流れるように入ってくる。
イヤホンをしていた時よりも遠く、しかしもっとずっとリアルに届くその声をちゃんと聞きたくて葵はそっと瞼を下ろす。
「お誕生日の葵王子の欲しいものをお伺いしたく、な」
「本人に今日聞いちゃうんだ」
「本人に今日だから聞くんだろ」
「そういうものかな?」
「そーいうもんだ」
「そっか」
「おー」
閉じた視界のせいなのか、微かな息遣いにも気が向いてしまうし、話すたびに揺れる振動は呼吸のたびに少しずつ上下する背なの動きも感じ取る。なにより長い間聞いてきたその声がじわじわと葵の中に沁みこんで葵をなによりもずっと安心させる。
「俺ね、新から欲しいものあるんだよ」
「マジか」
「マジです」
「ささ、どーぞどーぞ」
先週の新の誕生日に新は葵の歌声が好きだと言ってくれたけど、それを言うならば葵だって新の声が好きだ。
歌っていても、演技をしていても、ただ話しているときだって、馴染んだその声を聞くと安心するし、落ち着くし、かと思えばドキドキすることだってある。いつだって変わらなくて、どんなときだって新鮮だ。
きっと他の誰よりも新と話してきた自信がある。
そんな葵ですら飽きることなんてないし、むしろもっともっとと欲しくなる。
「日付が変わるまで、俺とお喋りしよう?」
「そんなんで良いのか?」
「そんなのが良いんだよ」
「変な葵だな」
「新は嫌?」
「嫌では、ないな」
だからどうせならもっともっと、いっそ根付いてしまうほどに新の声が葵の中に染みこんでくれたら良いのになんて思ってみたりもして。
そんなことまでは言ったりしないけれど、でもこのまま日付が変わるまで一緒に話していれば19歳になった葵に一番初めに「おめでとう」を言ってくれるのは新なんだろうと期待はしてみたり。
なんだかんだで聡いこの幼馴染にどこまで葵の考えがバレているかは分からないけど、今日はそんなことは忘れてしまっても良いかなと少しだけ持たれる力を強くして。
お互いの呼吸と触れ合った個所から伝わる熱を感じながら、穏やかで静かな部屋の中にゆっくりと新の声が満ちては溢れるこの瞬間が、どうしようもなく幸せだと思うから。
「話そう、新」
日付が変わるもう少しの間だけ、その空間に溺れていても良いかな。