『叶わない恋をしたのだ』
暗かった世界にぼんやりと現れた光の中に一人の青年の姿が浮かび上がる。録音された音声が聞きなれた声を少しだけ遠いものにして、離れた舞台にいる彼を更に遠くさせた。
横にいる郁が息を詰めたのが空気で伝わる。ほんの数分前までは「楽しみですね」なんていつも通りの笑顔を浮かべていたその顔が緊張すらはらんで青年へと惹きつけられていた。きっと自分もそうなのだろうと夜は他人事のようにすら思えてしまう程だ。
『それでも…それでも良いと』
この場にいる大半の人たちがそうだろう。
皆が一心に舞台の上で遠くを見つめる青年へと意識を注ぐ。
その舞台の中心で彼は何を思って、どう感じて、何を見て、そしてその手は。
『僕は、届かない恋をしたのだ』
何に向けて、伸ばされたのだろうか。
新の主演の舞台が今日初演を迎えるのだと聞いたのは、なんともまぁ急なことだが今日の朝だった。
前々から主演を貰えたのだと自分のことのように喜ぶ葵や、稽古で忙しいという新から話を聞いてはいたけれど公演日までは知らなかった夜としてはまさに目から鱗の事態で。都合がいいのか悪いのかせっかくのオフになったのに流石に当日ではチケットも取れないと気落ちしていたところに彼らのグループのまとめ役である春がやってきた。
そして、新から関係者用にとチケットを貰っていたのだが急な仕事が入ってしまい始と春の2人分のチケットが余ってしまったのだと大層残念そうに夜へと綺麗な封筒を渡し、同じく残念そうな始と共に慌ただしく出て行こうとして、ふと振り返って「そうそう」と春が楽しそうに告げる。
「それに、あまり見ないでしょ?新の舞台」
「ああ、お前と…郁あたりは一度見てみると良い、参考に…なるかは分からないが」
すごいぞ?とこれまた意味深な笑顔を置き土産に二人はバタバタと見えなくなった。
急な事態にポカンとしていたがいただいたものは使わなくてはと先ほど名前を出された1つ下の少年へと連絡を飛ばし、その数時間後には見に行くつもりだったんだと玄関で鉢合わせた葵と駆と恋と合流し夜は小さめの舞台のある会館へとたどり着いたのだった。
新の舞台を見たことがあるかと聞かれたら「イエス」だが、あれは確か葵と一緒に出演していた新解釈の新撰組の舞台のDVDで、生で見るのは今回が初めてだ。聞いてみれば郁も初めてらしく、「楽しみですね!」とたまに夜へと会話を振りながらも悪戯っ子のような顔をした恋と駆からなにやらからかわれている様だった。
横で演じたこともある葵にしてみれば楽しみとはまた別の感情、…たとえば陽が小さなソロライブをした時の自分の様な感情を持っているのではないかと思ったが、あの時の自分は陽よりも緊張してしまい、何故か舞台裏の陽にリラックスを促されていたのだったなぁと遠くなってしまったように思える過去を苦々しく思い出した。
そんな自分と比べると、葵はとてもリラックスした…というよりも凪いだ顔をしていた。
たまに横にいる年小組の会話に混じりつつも、誰もいない幕の引かれた舞台を見つめては清々しさすら感じる微笑むを浮かべるのだ。
「葵は、緊張とかしない?」
「俺?うーん、ちょっとしてるかな…変だよね、緊張するのは新なのにね」
その顔が、夜にはよく分からなくて「そうだよね」と返しながらもなんだか葵と新が少しだけ遠くに感じた。あの、テレビ越しで見ていたあの時のような、そんな変な気分だ。
「でもね、新は大丈夫だし、きっと夜もびっくりするよ?」
「郁もびっくりだよねー」
「悔しいけど俺もびっくりだよ」
自分も、彼らからしたらそんな風に思える時があるのだろうかと考えていたせいで、続けられた駆と恋の言葉にいは「そっか」と生返事をしてしまい、ふとその言葉を疑問に思い聞き返そうとした時にはちょうど開演のベルが鳴ってしまったので、結局夜も、そして郁も「びっくり」の内容を聞けないまま舞台の始まりを迎えたのだった。
『僕は、届かない恋をしたのだ』
その声が、いつもの眠そうな声と重ならなかった。
ハキハキと話すでもなく、しかし感情を込めて一音一音を届けるように紡がれる言葉は弱いながらもしっかりと強さをもって狭いホールへと響く。
その声に続くように伸ばされた手が、指の一つにまで感情を乗せて張りつめたと思ったら力なく落とされる。そしてその手に続くように表情が、嬉しいさや悲しさを混ぜて固めて諦めてしまった知らない少年の表情が、そこにはあったのだ。
「すごかった…」
90分の公演が終わり、ホールに光が戻ってもしばらくぼんやりとしていた夜と郁はため息をひとつ吐き出して、まずそれだけを零した。
すごかった。
同い年で、同じアイドルで、同じ寮で暮らす卯月新を自分は知っているはずだったのに、今日そのすべてがひっくり返されたかのような衝撃だった。
舞台へと送り出してくれた春や始、開演前の葵たちの言葉を今更ながら噛みしめて納得する。
「…新、違う人みたいだった」
それを聞いた葵たちが「だよねぇ」といまだにぼんやりとしている郁の前へと手を振りながら眉を下げて笑う。その返答が返ってくるということは、一応彼らも最初は驚いたのだろうなぁ、そうだよねぇと夜はちょっとした安心感を覚えた。
マイペースで、眠そうで、割と突拍子もないことをするのに急に常識人で、誰かをからかっていたと思ったらからかわれていて、あまり表情を動かさないで、それでもその時々をしっかりと楽しんでいるそんな…要するにマイペース人間な新が、仕事であるとはいえあんな表情もできたのかと、ただただ驚いてしまうのだ。
「横で演技しててもね、新の演技はなんか…生っぽというか…」
「あー分かります、ちょっと詐欺ですよね」
「詐欺って、恋…」
「…俺、あの新さんに初めて会ってたら騙されたかもしれない」
「いっくんまで…」
そんな夜たちを気遣ってかトントンと話を進めていく同グループの3人の言葉に、確かにとつい頷いてしまう。
上手いや下手などといった技術の面については夜は分からない。自分が演じる時もひたすら台本を読み込み、役としての自分を作り上げていくだけで、そこに自然と技術も付いて行くのではないかと思うからだ。勿論、言われたことは気を付けるし、発生や動き方の勉強をしない訳ではないけれど。
だから、新の演技が上手いのかは分からない。ただ、葵の言うように生っぽい…と言えばいいのだろうか。
「なんていうか、新も意識してる訳ではないみたいだから」
「そうなんですか?」
「うん、台本読みを手伝ったりするけど部屋では割と何時もの新だし」
「割とってことはたまには詐欺なんですか?」
「台詞を覚えてからは、まぁ…詐欺、かなぁ?」
葵も夜もそして郁も、役と自分を重ねて役を自分にすると言う方が違いのだろうか、役を自分のものとするなんていう先輩役者もいるが、多分そちらの分類だ。
しかし新は役そのものになっていた、役が新になった…と言うべきか、新が役になりきっていた、というのか、やはり夜には分からなかったけれど。
伸ばした指も、声も、確かに卯月新だったのに、そこにいたのは違う青年で。
「さて、そろそろ帰ろうか」
「葵さんはこれから用事があるんですよね」
「そうそう、だからここで解散かな」
「おつかれさまです」
「お疲れ様、葵。頑張ってね」
「うん、じゃあね」
バイバイと、手を振りながらも夜はずっと考えていた。
その身体も、表情も感情も違う青年で、でも確かにあれは卯月新で。
じゃああの腕は、表情は、どこへ、と。
それからは郁と少しだけ買い物をしてから寮に戻り、明日の午後からの仕事のチェックをし、自分も少し先に控えているドラマの台本を確認し、ご飯を作り、談笑をし、気づけばすっかり夜も暮れあとはお風呂に入って寝るだけだと欠伸をひとつ零して、目じりにたまった涙をぬぐう。
朝の舞台の衝撃がいまだに残っているのか、今日一日はどこか少しだけ遠く、仕事から帰ってきた陽から無言のデコピンを喰らったほどだ。
その些細な衝撃ではやはり全快はしなかったが、陽からの気遣いで少しだけいつも通りに戻った夜は「よし」とひとつ自分を落ちつけてから共有ルームにある螺旋階段へと向かった。
ゆっくりと階段を中ほどまで下った時点で、下の階の共有ルームにあるソファに寝転がっている黒い塊を見つけ少しの緊張と安心でふっと息を吐き出す。
あそこで寝ているのは始か新か黒田の誰かで、今日は運よく夜が探していた新であったようだ、意識が落ちる前まで飲んでいたのか苺のパックを床に置いてすうすうと気持ちよさそうに眠っている新は、間違うことなく何時もの新だ。
静かにソファに近づいて、そのすぐ傍の床に座っても起きるような気配はせず変わらず穏やかな寝息を立てる新にほっとして、投げ出されていた片方の手をそっと取った。
寝ている人特有の暖かさが指先から伝わってきて、これは結構な時間眠っていたのだなぁとついくすくすと笑ってしまったせいか、元から眠りは浅かったのかくぐもった声と共に新の瞼がゆっくりと開く。
「…夜か?」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いや、仮眠みたいなもんだった…はずだ」
言いながら「しまった」とソファに顔を押し付けて唸っているところを見ると眠ってしまう気はなかったらしいことがうかがえる。確かに今日が初演ならば明日も公演が控えているだろうし、疲れを体にのこしてしまうのは良くないから本当はしっかりとベットで眠ったほうが良い。
「あー、いやでもまだ葵が…」と言っているところを見ると、どうやら葵が来るのを待っていたようで、しまったしまったと言いながらも新がその場から動く気配はない。
ならば、と夜は握ったままの手に少しだけ力を込めた。
「今日の舞台、いっくん達と観てきたよ」
「そっか、知らなかった」
「…驚いてる?」
「凄く驚いてるだろ?」
何故か胸を張った新に「分かんないよ」と笑えば、少しだけ拗ねてしまったのか「夜は最近葵に似てきたな」とぶつぶつと文句を言われてしまった。
葵に似る、と言うのはよく分からないが、今日のことを振り返るとつい首を振ってしまう。
「似てないよ」
「いーや、最近は…」
「俺は、今日の舞台の新をみてびっくりしちゃったもん」
夜の言葉に動きを止めた新が先を促すように首を軽く傾けたので、夜は「ありがとう」と握ったままの手を、指を確かめるように触りながら舞台を見てから思っていたことを素直に告げる。
「新、知らない人みたいで、びっくりしちゃって…、舞台得意なんだね?」
「得意…かは分からないけど、始さんにも強みにして良いとかは言われた」
「すごい!十分な太鼓判じゃない?」
「でも、まだまだだって公演が終わるといつも思うし、100パーセントが俺には分からん」
指先を見つめる夜と同じように自分の手を見ている新の声は、舞台の上の通るための声とは違う、夜にだけ届けるためのいつもの落ち着いた声だ。少しだけ照れているのか、それとも夜に合わせてくれているのか口数が常より多い気がするが、それでも夜の知っている卯月新の声で、ついほっとしてしまう自分に夜は苦笑する。
「凄いなぁ新も、葵も、なんだか遠い人みたい」
「…そう言うのは嫌いだぞ」
「陽にもよく言われる、でもね、そうじゃなくて、なんて言えば良いのかな」
自分が相応しくないから離れて感じると言うことじゃなくて、それも少しだけあるけれど最近では思うことは少なくなったのだ。だから今回はそんな卑下のための言葉ではなくて、もっと曖昧で、ぼんやりとして、あの公演が終わった後のような、そう。
「夢の中みたいだった?」
「は?」
「うん、そうだ、夢の中みたいだった」
真っ暗なステージの上で、スポットライトを浴びて、一人で立って演じる新が夢の中の住人のようだった。
遠いのに近く、全く知らないのに既知感を覚え、紡がれた言葉は歌の様で、伸ばされた手は、
「だから、怖くなっちゃって」
伸ばされた手は、どこへ、と。
感情が渦を巻く舞台の上で、囲まれながらも人で立ち、生きる青年のその腕が伸ばされては下される度に
、その顔に悲しみや寂しさが増えていくたびに、違うと分かるのにそれでもとつい夜が手を伸ばしてしまいそうだった。
夢の中で落ちる感覚と似ているのかもしれない。途中までは全く関係のない流れていくだけの景色や物語が落ちる瞬間だけリアルに感じふっと目を覚ます、あの感覚。
「新の手が届かないんじゃないかって、一人になっちゃうんじゃないかって」
怖くなって、会いに来てしまった。。
その顔を見たら、その手を取らなくてはと思ってしまった。
「…変だよね?」
自分で話したくせに女々しくて馬鹿みたいだなぁとつい握っていた手を離そうとした夜の指を、先ほどまでされるままになっていた新の指が緩く掴む。
その力が優しいのに思いのほか強く、はっとして顔を上げれば、同じく指先から視線を夜の顔へと向けた新とぱちりと目が合う。
「変だな、夜は変だ、でもそれが夜だから、変じゃないと、俺は思う」
「えっ?」
「俺は俺だし、大体ここで寝てるからいなくなったりはできないんだが…」
根拠はないのに自信満々で、他者を巻き込むマイペース。
そんな、いつもの新が、先ほどの夜と同じように寄るの指を握りながら、空いた手をソファの空いた隙間へとポンポンと叩きつける。
「夢なら、今から寝れば一緒に見れるんじゃないか?」
「え?」
「同じ夢なら、まぁ俺でも夜と一緒にいられかも、だ」
な?と薄く笑う新は確かにそこにいて、握った手は…伸ばされていた手は今は夜の手の中にある。
どこかへ行ってしまうのが怖いから、捕まえて置いたその手は、いつの間にか本人から抱き返されていたのだと今更ながらに気づいて、なんだか馬鹿みたいだなぁと自然と笑みが零れた。
「そうだね、そしたら怖くないね」
「夜が?」
「新が」
ぼすりと頭を乗せたソファが暖かくて、握って掌から伝わってくる安心感に今日一日中感じていた不安がゆっくりと溶かされていくようだと感じながら、そういえば眠かったんだなと数分前前の自分を思い出し夜は新と共にゆったりと夢の世界へと落ちていった。
「あーらーたー、おきてー?」
浅い眠りについていたはずの新が次に覚醒した時には共に寝たはずの夜の姿はなく、代わりに見慣れた青い瞳の王子様が立っていた。寝起きに見るには少しばかり眩しいなんて言えばきっと彼、葵は「なにいってるの」と笑いながらも軽く小突いてくるのだろう。
だが、それよりも隣にあった熱が無くなった方が気になる。
「起きた」
「うん、お疲れ様」
「…夜はどうした?」
「さっき海さんが担いで帰って行ったよ?一緒に寝てたの?」
気持ちよさそうに寝てたから、海さんが担いでも起きなくてねと笑う葵に、そうかと新も息を吐いた。
なにやら自分を心配していてくれたようで気落ちしてしまっていたから心配だったのだが、解決したらしい。自分は一緒に眠っただけだから、きっと夜が自分で答えを見つけたのだろう。
「それはよかった、よかった」
「なにかあったの?」
「あったのか?」
「俺に聞かれてもね?」
こてんこてんと互いに首を傾げあってしまい、同時に噴き出した。起きたばかりの頭ではどうにも思考が緩慢になってしまっていけない。そんなことを口にしようものなら「新は大体寝起きだろ」とピンクの頭に言われると分かっているので言わないが。
それに、なんとなくだが良い夢を見ていた気がするのだ。そのせいもあってかいまいち頭の覚めが悪い。
「夜のおかげで良い夢を見れたような…?」
「そうなの?」
そうなのだ、と頷けば。良かったねと条件反射のように綺麗な笑顔が返ってくるあたりが葵だ。
そうだ、思い出した、夜が舞台の話をして、怖くなったというか一緒に寝たのだ。なんとも夜らしいと新は思うし、それでこそ夜だ!と何故だか自慢したくなりすらした。
思い出したら、夜には言えなかったことまでつらつらと思い出し、「そうなんだよ」と目の前の葵の手を取って体を起こしながら話を続ける。
「夜が、舞台の俺が一人に見えた、と」
「あー、そうだねぇ、びっくりしてたもんね、夜」
「手が届かなくなるんじゃないか怖くなって、手を握ってくれた、と」
「夜らしいね」
だろ?と二人して自慢するみたいに顔を合わせる。きっと葵も同じ気持ちなのだろうから。
でも、ここから先は夜には秘密だ。
「でも、俺の横には葵がいるだろ?」
「うん?」
「手を伸ばしたら葵がいるし、一人になんてならない」
夜としていた手遊びよりもぎゅうと葵の両の手を握ってにやりと笑えば、葵もそれはそれは嬉しそうににっこりと笑って、握っていた掌ごと自分の体をひっぱり勢いよく新の頭を抱き込んだ。
「そうだね、新の横には俺がいるね」
「そうそう、俺の横には葵がいる」
「ひとりになんて、ならないよね」
今日も、明日も、きっと夢の中でも、夜の心配なんて杞憂になってしまうくらいに、この幼馴染がずっと横にいるんだと新には分かるから。抱き合って触れ合って、どちらが横でどちらが前か分からなくなるほどずっとずっと近くにいるのだから、だから。
「夢は、終わりだ」
「うん、明日も頑張ろうね、新」
昨日の夢は今日で終わり、暗い夢も今日で終わり、長い長い夢も、ここで打ち止め。
今からまた、二人で、みんなで、もっと先へと行くのだから。
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