まず初めに言っておきたいのだが、霜月隼は狸寝入りをしている。
少しだけ寒くなってきた夕方を日の当たるソファの上で微睡んでいたのは本当で、仕事も終わって疲れた身体を休める至福のひと時を十二分に満喫していたのも本当だ。あと10分もしたら本格的に眠りの世界へと入って行こうとしていた、そんな時に「ただいまー」と誰に言うでもない挨拶と共に共有ルームに陽が入ってきたのだ。
誰もいないかもしれない場所でも、誰かがいる可能性があれば自然と挨拶を言ってしまうのは習慣なのだろうか、態度や見た目からは誤解されがちだが陽は案外律儀だ。流石プロセラルムのメンバーだ、鼻が高い。
そんな上機嫌のまま起きても良かったが、ちらりとこちらを眺めただろう陽が特に何を言うでもなくそのまま椅子に座り携帯端末を弄り始めてしまったのでなんだかタイミングを逃してしまい、まぁこのまま眠ってしまっても良いかなと再度意識を夢の世界へと落とそうとしたのだが、今度はまたタイミングよく陽の弄っていたタンマツが軽快な音楽を鳴らし、その電子音で隼の意識は再度現実へと戻された。
どうやらメールの着信音だったらしく、文面を読んだであろう陽が小さくため息を吐いて「はいはい」と独り言を呟きながらキッチンへと消えてしまった。
夜あたりから晩御飯でも頼まれたのだろうかと適当な案を頭の中で練ってみたのだが、今日の夜は晩御飯を寮で食べられる時間に帰ってこれただろうかとスケジュール表と照らし合わせた結果、おそらく外食だろうという結論に行き着く。
ならば誰から頼まれ、どうして陽がご飯を作るのだろうか、ここで起きてキッチンに乗り込み陽に直接聞いてみても良かった。あと1分もしたらそうしようと微睡んでいた頭を起こしていたときに、今度は控えめな足音が共有ルームの前へと近づいてきたので結局隼はそのままソファの上で小さく頭の位置を変えるだけにとどまってしまったのだ。
「…ただいま」
「おー、おかえり涙、もうすぐ飯作ってやるから座って待ってろー?」
消えそうな声の涙が自室に戻るよりも早くキッチンから顔を出した陽がそれを止めた。
暫くドアの前で止まっていた涙も、考え事が終わったのかまたゆっくりと静かに歩きだし先ほどまで陽が座っていた椅子へと腰をおろした。
静かな部屋だった。
先程陽にメールを送ったのは涙だったのだろうかとか、涙もちゃんと「ただいま」に言える良い子だなぁとか、そんなことも考えてもぞりと動いた隼の衣擦れの音と、キッチンの奥でトントンと何かを刻む音と、それと。
「…っ、うー…」
啜っては堪える、涙の泣き声だけだった。
ただいまを言った声だけでは聞きとれなかったが、どうやら部屋に入ってくる前から涙をためていたらしい涙は椅子に座り落ち着いたところで我慢が利かなくなったのか喉を震わせて大きな声を出さずに泣き出した。
まだ精神的に未成熟なところがある涙が感情をあらわにすることも最近では珍しくもないが、そんな時は大抵彼の相方がその横でその手をとって、その背を撫でてくれているはずなのだけれど。
つまりそれがないということは、そういうことなのだろう。
トントンと刻む音が止んでしばらくしたら手をエプロン吹きながら陽がキッチンから戻ってきた。
コツンとテーブルに何かを置く音もしたので、なにか飲み物でも持ってきてあげていたのだろう。「ありがとう」という消えそうな涙の声と「どういたしまして」といつも通りの声で返す陽の声が聞こえた。
暫くは二人が何も言わずに持ってきたものを飲み、静かになった頃にまたぶり返してしまったのか涙が声を殺して泣き始める。
「なに、郁と喧嘩でもしたの?」
「ちがっ、けんかじゃ…ないよ…」
「そっか」
そんな涙に慰めるのとも少し違う様の言葉がかけられる。
涙の横でいつも涙と一緒に笑って、困って、成長していく郁がつらいことがあって泣いてしまった涙を放っておくはずもないのだ。だから、きっと涙の泣いている理由が郁とのことしかありえない。
以前の喧嘩を思い出したのか「喧嘩」と表現した陽にすかさず反論した涙だったが、途中で自信が無くなってしまったのか語尾がどんどん小さくなっていまう。
それでも、そんな涙を肯定するでもなく否定するでもなく受け入れて、陽はずずっとわざとらしく音をたててコップの中を空にしていた。
「価値観の、そういってやつ…だよ」
「おー難しい言葉つかってまぁ、大人ぶっちゃって」
「子供じゃ…!なく、ないけど…今日は、子供かも…」
そんな陽の態度に涙は引いてきたのか、先ほどよりもいくらか会話のテンポが良くなってきたころ、また何かを思い出したのか、思い詰めてしまったのか涙の声に泣き声が混じり始める。
きゅうきゅうと、泣きそうな時の喉を思い出して隼は、どうせなら一杯に泣いてしまった方が楽なのにと思うが、それを今教えてあげるのも、教えてあげないのも自分の仕事ではないのだろうなと思う。
「いっくんは悪くなくて、でも…僕も悪くなくて」
「そりゃあ確かに意見の相違ってやつかなぁ」
「そう」
「俺と夜なんて大体俺が悪いし、ほんとお前らはそういうとこ大人だよな」
「陽はもっとしっかりすると良いと…思う」
全くな!と小さな涙の声を拾っては返す陽の声は、叱っている訳でも一緒に悲しんであげる訳でもなく、
解決へと道を示してくれるものでも勿論ないけれど、それが陽の立ち位置なのだろうなぁと隼は思うし、それと同じように隼の立ち位置もここなのだろうなと、思う。
一緒に成長するのが郁で、叱ったり教えてくれるのが海で、一緒に悲しんでくれるのが夜だ。だから陽も隼も涙のことを励ましたりはしないし、郁のことを攻めたりももちろんしない。
「おっ、良い匂いしてきたな」
「…カレー?」
「そうそう、俺特性の絶品カレーだからな」
ただ、言葉以外のところで、ゆっくりゆっくり、降らすように伝わればと思うのだ。
ふんわりと漂ってきたスパイスの匂いのように、染みるように、ゆっくりあたたかかに。
そして、この匂いや色や音を思い出した時に、今日のことを笑って一緒に思い出せるようになっていればいい。
そのための今日なのだから、今はそのままで、その時が来るまでは。
「だから、それまでには泣きやめよ」