カンカンカン
頭の中で警鐘が何度も鳴り響く。
危険だ、大変だ、逃げろ、逃げろ、立ち向かえ、今こそ、今こそ!まとまらない思考ばかりが頭を埋め尽くして正常な考えを塗りつぶしていく。
どうせ死ぬ、敵う訳がないとは最初から分かっている。それでも逃げろと鳴り響くその鐘の音を素直に聞くことなど七夜には到底できなかった。
「なぁ、紅赤朱」
自分の中だけで響くその音とは対象に草原は静かで、照らす月と自分の声と足音とお互いの息遣いしか聞こえない。そのせいで余計に響いて聴こえる警報も自分の口から滑り落ちた声がかき消してしまって、七夜には自分の声ばかりが草原に響いているような気にすらなった。
腕を広げればさながら役者になったようだ。反響する声と自らを照らすスポットライトの月明かり、自分を見据えるたった一人の観客までそろった極上の舞台だ。
「アンタを探してたんだ、アンタに言いたいこととかたくさんあったんだ、本当だぜ?」
くるりと掌の上のナイフを回せば月の光に反射してキラリと互いの顔に一瞬光が過る。その光が目の前の鬼の首を一薙ぎにする様子に七夜の口端は自然と持ち上がった。
この銀色であの首を引き裂いて、あのたくましい腕を切り落として、片方が抜け落ちた目を抉り取って、一向に開くことのない口を一文字に割開いて、その胸に深く、深く己の熱ごと突き刺して。想像するだけで堪らない。ぞくりと背中に痺れが走る。
堪らないのだ、お前を目の前にするとこの体は一切の機能を止めてしまうのだ。
カンカンと煩い警鐘も、震える手も、逃げろと後ずさろうとする足も、全てがそこで一度止まって巻き戻し、焦がれて焦がれてしょうがなかった時の自分へと退化してしまう。
「駄目だよなぁ、まだまだだ、でもまぁそれも悪くない」
だろう?なぁ、お前もそうならいいのになぁ。

そうして、全ての音を振り切って直進した先で、七夜の腹にまたひとつ穴が開く。
あっけない、焦がれた時間も、今この目の前で感じた熱も、正しくあっという間に冷めていくほどの瞬きの間に、やはり止まることになったのは七夜であったのだ。

カンカンとなっていた警鐘はもはやガンガンと叩きつけるような音へと変わる。そんなに煩くしなくたって聞こえているというのに、今さら何を言っているのだか、いよいよ馬鹿になってしまったのだろうなと鮮血の溢れる口を無視して笑う。喉をひくつかせて笑うたびに溢れるものを無視して最後まで好きにしてやろうと己の腹に腕を突き刺したままの鬼へと手を伸ばす。
その手にもはやナイフなど握られてはいないし、残念ながら先祖返りのような力もない、爪も凶器になるほどではないし、そもそも力が入らないから、震える腕を持ち上げて何を考えているのか分からない鬼の顔をぺたりと触る。
驚くことも拒むこともないその顔は今夜初めて会った時から全く変わらない。表情筋が死んでいるに違いないとまた小さく笑う。
「なぁ、紅赤朱」
ふるふると覚束ない指先をその目に頬に沿わせて、力を込めれば瞳くらい潰せるかと思ったが自分がそうするよりもこいつが自分の腹を裂く方が早いだろうと容易に想像が出来たのでやめた。
触れることなら出来るのに、裂くことが出来ないなんて殺人鬼としては下の下にも及ばない。まるでそれでは傷つけることが出来ないただの小娘の様ではないか。
「アンタを探してたんだ、アンタにしたいことが山ほどあるんだ、本当だ」
そろそろ上手く笑うことが難しくなってきた。
身体から血の気がみるみる減っていく。むしろ良く動き良く長らえているものだと感心するばかりだ。
せっかくの余命をもっと有意義に過ごせないものかと思うが、もう何度目かも分からない、死に際に言いたいことなどもう言いつくしてしまってた。あるのはいつも通り後悔と、行き場のない思いだけだ。
それも結局言葉にしたって鬼になんの傷も残すことなく散っていくのだから、ああなんということか、無駄骨ここに極まれる。
それでも、何度でも、何度警報が鳴ろうとも逃げろと脳が叫んでもきっと何度だって繰り返す。
「駄目だよなぁ」
しかしそれも、それだから、わるくない。
最後まで言葉にすることなく、上げた腕がガクリと落ちた。
最後の最後に鬼の口がなにか言葉を紡いたような、そんな気がした。


月が綺麗だ。
告白の様だと思った。
貴方とならば死んでも良い。
恋情の様だと思った。

その腕が、その声が、その瞳がこちらに向けられるから、応えるしか軋間には出来ないのだ。
だからその腕が自分を裂くことに応えられない。受け入れてやることが出来ない。その熱を抱きとめてやることが出来ない。
いつもいつも自分を探していたという、終末を想像しては身を震わせ、その結末の為に生きているという。まるで一途な小娘だ。
そして毎度最後に「駄目だ」と笑ってこの腕の中で果てる。その温かみの無くなった体を壊れないように抱きとめながらその場にガクリと膝を落とす。
駄目だと笑うその顔が憎い。

月が綺麗な夜の告白の様ではないか。
貴方にならば何度でも、貴方を次こそ何度でも、死んでしまっても構わないなど、恋情の様ではないか。

「なぁ、七夜」

まるでそれでは、恋の様ではないか。
届くことのない鬼の子の呟きだけが、どこにも届かずに草原におちた。


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